キリスト教は、不幸や苦しみに対して答を示せるのか?

そんなことを考えさせる投稿記事が最近の米紙ワシントンポストに載った。投稿者は、キリスト教関連の著書があるデレク・フラッド氏だ。記事で同氏は、人々がキリスト教の信仰を失う理由は数多いが、「なかでも圧倒的に大きいのは、不正や苦しみに対する疑問である」と言う。人々は日常的に苦しみと直面しており、「神よ、あなたはどこにおられるのですか?」と問うという。

実際、「全能の善なる神が存在するなら、なぜ悪や苦しみがあるのか」という議論は、西洋では神学や哲学の大きなテーマの一つだった。「theodicy」(「神義論」「弁神論」などと訳される)という分野がそうだ。キリスト教会全体としてこれに対する解答を示せているとは思えない。

信仰を失う理由の二番目としてフラッド氏は「神が私たちに対して怒り、罰を与えようとしている」という考え方を挙げている。確かに、特に旧約聖書に登場する神は、異民族の虐殺を命じるなど「怒る神」「罰する神」の側面が強い。フラッド氏は「この点こそ現代無神論の土壌である。無神論者は神への信仰が欠けているのではなく、善ではない神を信じることは道徳的におかしいと考え、信仰を拒絶しているのだ」と指摘する。

これらの問題について、記事はどう結論づけているか。第一の点についての答えをまとめると「イエスが現れたのは、悪や困難がある理由を説明するためではなく、苦しむ人々に命を差し出すため」というものだ。これでは、イエスは人生の疑問に答えてくれないことになる。フラッド氏は、疑問を持つからといって信仰が薄いことにはならないとしているが、記事から受ける印象は「いちいち説明を求めずに信仰すればよい」という開き直りだ。確かに、「何でも疑問に答えてくれなければ信じない」というのは人間の傲慢な態度だろう。しかし、宗教として人生の基本的な疑問や悩みに応えられないのに、一方的に信仰を求めるのは無理があるのではないか。

幸福の科学では、悪の存在について以下のような明確な教えが説かれている。

  • 人間の本質は魂であり、永遠の転生輪廻をしている。この世は魂の修行場あるいは学校であり、そこで不幸や苦しみといった試練を経ることによって魂が輝きを増し、成長してゆく。
  • 悪や不調和は、自由を与えられた人間同士の衝突が原因となって生じるが、それらもまた修行の糧とし、なるべく人間側の努力で解消させるため、仏神がすぐに悪を消滅させたりはしない。
  • しかし、悪を放置するのではなく、天上界から多くの菩薩や天使たちを地上に派遣して指導しているほか、仏神もまた人間の肉体に宿って活躍し、地上を浄化するために活動している。

第二の点についてフラッド氏は、「恐怖に基づく物の見方は、イエスの代表的な教えではなく、新約聖書を反映しているとも思えない」と言う。しかし、「では、旧約の恐ろしい神はどうなのか?」という疑問は解けないままだ。これについても幸福の科学では、聖書には個性の異なる複数の神の声が混在しており、中心的な愛の神の他に、戦闘的な祟り神が含まれていることを明かしている。

キリスト教には、人間の魂の本質、霊界や転生輪廻についての教えが圧倒的に不足している。記事が暗に認めているように、悪について納得のいく説明ができないのもそのためだ。人生の基本的な諸問題に答えてくれない宗教への信仰を強要すれば、それ自体が苦しみの種となってしまう。キリスト教もイスラム教も、大胆なイノベーションを行うか、それとも新時代にふさわしい宗教に座を譲るかの選択を迫られているのではないか。(只)

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