「羅生門」「蜘蛛の糸」「杜子春」などの短編小説を中心に、明治時代に活躍した文豪・芥川龍之介(1892~1927年)。その作品は、学校の教科書に掲載されるなど、多くの人に親しまれてきた。
そんな芥川は、数多くの作品で、神仏の御心や信仰者の生き方を鮮やかに描き出しており、その実像は、「理知的な技巧派作家」という文学史的な評価だけには収まらない。
本誌2025年5月号「芥川龍之介が描いた『神への愛』」では、芥川が、作品の中で釈尊と仏弟子、イエスとその使徒の素顔を描き出していたことを紹介した。
大川隆法・幸福の科学総裁は、芥川について、エベレストあたりの地下付近にあり、宗教家をはじめ、芸術家や政治家などが霊的な覚醒を得るために修行をする、地球の霊的なセンターである「シャンバラ」に出入りする存在であることを明かしている(『メシアの法』)。
今回は、その芥川龍之介に関するアナザーストーリーを2回に分けて、紹介する。今回は、その前編。
自分の作品は「宗教の先触れ、前触れみたいなところはあったかもしれない」
実は、芥川は、大川総裁の霊言にたびたび登場しており、幸福の科学の映画にもさまざまな形で協力。今年5月23日公開の映画『ドラゴン・ハート─霊界探訪記─』に関する「参考霊言」も降ろしている。
その中で芥川の霊は、自身の「蜘蛛の糸」「杜子春」などの霊的な作品に対する思いを、こう語っている。
「確かに、宗教の先触れっていうか、前触れみたいなところはあったかもしれないね。宗教だとみんな敬遠するやつを、小説なら読めるっていう感じかな」
「この現代日本のための、何か文学の基礎をつくる一人として出たけどね。まあ、宗教的なものをね、何とか読み物のかたちで、人々の心に押し広げていくことをやらないと、明治以降は宗教のほうが埋没していきそうな感じもあったからね」
「短い文でいいから、人の心に残るようなものを何か、紡いでいきたいなあって気持ちはありましたよ」(『映画「ドラゴン・ハート─霊界探訪記─」原作集』)
芥川の作品は、一文学者の枠を超えて、この世とあの世を貫く「真理」の一端を示すところにまで届いていたのではないだろうか。
「偽作三昧」で滝沢馬琴に仮託した「創作の本質」
古代ギリシャの哲学者であるソクラテスやプラトンが「知を愛する」道を説き、「真・善・美」の世界を求めたように、芥川の心の中にも、そうした理想への愛が燃えていた。
それは特に、「戯作三昧」という作品にうかがえる。この作品の中では、江戸時代後期の長編小説『南総里見八犬伝』の著者・滝沢馬琴に仮託して「創作の本質」が描かれる。
物語は、銭湯で物思いに沈む馬琴の心に「悠久なもの」が影を落した時に客の声が響き、思考が中断されるところから始まる。馬琴は不機嫌なまま帰宅するが、自宅で可愛い孫と語らう中で自分自身を取り戻す。そして、静かな夜に、「嵐のような勢い」で筆を駆る様が描かれる。
「始め筆を下した時、彼の頭の中には、かすかな光のようなものが動いていた。が、十行二十行と、筆が進むのに従って、その光のようなものは、次第に大きさを増して来る。経験上、その何であるかを知っていた馬琴は、注意に注意をして、筆を運んで行った。神来の興(きょう)は火と少しも変りがない。起す事を知らなければ、一度燃えても、すぐに又消えてしまう。……『あせるな。そうして出来るだけ、深く考えろ。』
(中略)
『根かぎり書きつづけろ。今己(おれ)が書いている事は、今でなければ書けない事かも知れないぞ』しかし光の靄(もや)に似た流れは、少しもその速力をゆるめない。かえって目まぐるしい飛躍の中に、あらゆるものを溺らせながら、澎湃(ほうはい)として彼を襲って来る。彼は遂に全くその虜(とりこ)になった。そうして一切を忘れながら、その流れの方向に、嵐のような勢いで筆を駆った」
「悠久なもの」の影をとらえる芥川の偉大さに気づいた、数学者・岡潔
芥川は、「悠久なもの」の影をとらえ、描くことを創作の本質と捉えた。そこに芥川の偉大さがあることに気づいたのは、数学者として世界的業績を遺した岡潔である。