2013年9月号記事

ー歴史問題に終止符をPart3ー

「慰安婦20万人連行」説はすでに崩壊した

「日本軍による慰安婦強制連行」は、本当にあったのだろうか。この十数年間の検証によって、まったく根拠がないということが分かってきている。

ー20万人強制連行はなかったー

(1)「慰安婦20万人」は兵員数に比べて“過剰供給"

1.兵士の数に比べて多すぎる

2.慰安婦は主に日本人だった

(2)日本の軍・官憲が強制連行した証拠・証言はない

1.朝鮮の日本軍は駐屯地から出なかった

2.当局は女性を連れ去る悪徳業者を取り締まっていた

3.強制を示す証拠が見つかっていない

4.女性たちが強制的に働かされたのは、身売りのため

(3)「強制連行はなかった」と知りながら、
韓国政府は河野談話をつくらせた?

1.証拠は韓国政府が設定した聴き取り調査のみ

2.韓国は強制連行がなかったことを93年ごろには確信した

3.韓国軍による慰安婦強制は、情報が隠ぺいされている

1938年ごろ上海に設置された陸軍兵士向けの慰安所。

韓国政府や在米韓国人などの働きかけで、「日本軍が20万人の女性を強制連行して慰安婦にした」という説は、国際的に広まっている。だが冷静に見ると、この説にはおかしな点が多い。

(1)「慰安婦20万人」は兵員数に比べて“過剰供給"

まず20万人という数字は、日本軍の兵員の数と、あまりに釣り合わない。 国外に配置された日本軍軍人は1944年時点で約3百万人いた。慰安婦は1日あたり数十人の相手をしたという証言もあるが、仮に20万人が1日10人の客を取ったとして、2百万回。軍人は戦闘そっちのけで、3日に2日は慰安婦と時間を過ごしていたという計算になってしまう。戦時中に兵士全員が慰安所に通ったわけでもなく、慰安所の料金負担も考えれば、20万人という数字のおかしさが分かる。

また20万人はほとんど朝鮮人だったと言われるが、これもありえない。当時の朝鮮の人口は約2千万人。うち半数を女性とすると、50人に1人が連行された計算になる。若い世代に限れば、20人に1人ぐらいだろう。 これだけの女性が拉致されれば朝鮮の人々が蜂起して当然だが、そうした事実はなく、拉致現場の目撃証言も一切出てきていない。 20万人の強制連行はなかったと考えるのが自然ではないか。日本の領事館の報告書などから、実際の慰安婦は主に日本人で、朝鮮人はその半分程度だったと見られる(注1)。

(2)日本の軍・官憲が強制連行した証拠・証言はない

慰安婦問題の焦点は、日本軍や官憲が慰安婦を強制連行したかどうかだろう。だがソ連からの防衛のために 朝鮮に置かれた2個師団は、終戦までもっぱら駐屯地に駐留し、街には出なかった。

当時の朝鮮で内務課長を務めた西川清さん(97歳、和歌山県在住)は本誌の取材に対し、 「絶対に強制連行はありませんでした。憲兵が目を光らせていましたから、兵隊が朝鮮の女を連れて行くような悪いことは絶対にできませんでした」 と断言する。

慰安婦募集や斡旋は民間業者が行った。 悪質業者が軍とつながりがあると嘘をつき、女性を集める事例などはあったが、当局はこうした業者を取り締まるよう通達も出している。 女性を騙したり、誘拐して売り飛ばすケースも後を絶たなかったが、治安当局が熱心に犯人の摘発を行っていたことは、当時の新聞報道から分かる(注2)。

日本軍が朝鮮で慰安婦を強制連行したという証拠は、今日まで見つかっていない。目撃証言もない。92年に朝日新聞が、「慰安所への軍関与示す資料」が見つかったと報じたが、これは、誘拐まがいの手口で女性を集める業者の取り締まりを求めるものだった。

韓国では「慰安婦は挺身隊として徴用された」と信じられているが、これは事実誤認だ。戦況悪化に伴って、確かに内地では女性が「挺身隊」として工場などで働いた。だが朝鮮では、男性が徴用されて働くことはあっても、女性への適用は見送られている。

(注1)『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦著)など
(注2)『ひと目でわかる 日韓・日中歴史の真実』(水間政憲著)

慰安婦は「楽しかった」と言っている

このように、日本軍が慰安婦を強制連行した事実は存在しない。一方で人権活動家からは「性奴隷にされた女性が苦しんだのは確かであり、日本政府は償うべき」という声が絶えない。

だが実際に戦地に赴いた日本人慰安婦の証言は、「性奴隷」という言葉のおどろおどろしいイメージとはかけ離れたものだ。

南洋のトラック島で慰安婦をした山内馨子さんは『証言記録 従軍慰安婦・看護婦』(広田和子著)の中で、当時を「いままででいちばん楽しかったのは、トラック島にいたときよ」と回想し、現地での生活をこう証言している。

「あたしは士官用だったから、お相手させていただいてる方々と同等の食事ができました。(中略)それに、カナカ族が朝六時からお風呂をわかしたり食事のしたくを手伝ったりしていたから、あたしたちはなにもしなくていいんですよ」

軍人にとって女性との接触は貴重で、お土産を持参したり求婚するケースもあったなど、慰安婦を大切にした。暴力をふるわれたと韓国人元慰安婦は証言するが、疑わしい部分が多い。

元航空隊の安藤健次郎さん(94歳、北海道在住)は本誌取材にこう語る。

「女性との接触は貴重で、みんな彼女らを大事にしたから、叩いたりなんて、恥知らずなことをするはずないよ。『兵隊さん頑張って』って言ってくれて、戦友という感じだったね」

慰安所利用には細かい規則があり、問題を起こせば罰せられた。乱暴する兵士が皆無だったわけはないだろうが、「日本軍は組織的に慰安婦を暴行し強姦した」という話は事実を歪めている。

慰安婦は軍人を相手にした「公娼」というのが実情で、大卒の4倍にもなる月収3百円を稼いだ。陸軍大将以上の高給をもらい、財を蓄えた人もたくさんいた。

彼女らの多くは家が貧しく、苦界に身を沈めざるを得なかったのは事実だ。 家族や本人が業者から借金を前借りし、働いて返した慰安婦も多い。つまり当時の日本でも起こっていた女性の身売りだ。これが「広義の強制」と呼ばれるものの実態 であり、日本政府に賠償を求める声もある。だが彼女らの境遇がいくら不幸だったとはいえ、直接強制して彼女らを慰安婦にしてはいない以上、日本政府に賠償責任はないと言える。

(3)「強制連行はなかった」と知りながら、韓国政府は河野談話をつくらせた?

慰安婦強制連行説の誤りは明らかだが、韓国政府はそれを知りながら、歴史問題を外交カードとして使っている疑いがある。

その確信犯ぶりは93年の河野談話発表の経緯が示唆している。

日本政府はこの談話で、官憲による慰安婦募集の強制があったとし、謝罪した。だがそもそも 日本政府の調査では、強制を示す証拠は一切見つからなかった。裏付けは、韓国が求めた元慰安婦への聴き取り調査のみ。 だが調査対象は、韓国政府が選んだ16人の元慰安婦という客観性を欠いたもので、彼女たちへの日本側からの反問も、関係者などへの周辺調査も許されない不自然なものだった。

聴き取り調査の内容は今も公表されていない。教育学者の藤岡信勝氏は本誌取材に対し、「公表すれば周辺調査が行われてボロが出るため、日本政府が元慰安婦をかばっているのです。韓国との密約も当然あるでしょう」と語る。

韓国政府は、慰安婦の強制性を認めて謝罪するようしきりに日本側に圧力をかけた。嘘と知りながらそれを押し通そうとしたのか。

現代史家の秦郁彦氏も、『慰安婦と戦場の性』の中で、 「92年秋から93年初めにかけて、韓国政府は、強制連行がなかったらしいことを確信するに至っていたと思われる」 と述べている。

実際に、元慰安婦の聴き取り調査を行ってきた韓国挺身隊問題対策協議会が93年2月に出版した証言集も、「今まで発見された軍文書のうち、慰安婦の動員方法を具体的に説明するものは1件もない」としている(注3)。

韓国も自国の歴史問題に向き合うべき

米ニュージャージー州に建てられた「慰安婦の碑」。在米韓国人団体は、全米で同様のモニュメント建設や、議会での「慰安婦決議」採択を画策している。

日本の「慰安婦問題」は事実無根だと明らかになっているが、一方で韓国の「慰安婦問題」がクローズアップされている。

朝鮮戦争当時、韓国軍が自前の慰安所を経営していたことが、「後方戦史」という軍の文書で判明した。ソウルなど4カ所の慰安所には、「第5種補給品」として89人の慰安婦がおり、1年間でのべ20万回も接客したという。

しかも業者が斡旋した日本の慰安婦とは違い、共産主義者と疑われ、強圧的に連行されるケースもあった。兵士がドラム缶に女性を押し込み、トラックで連れ去ったという証言もある(注4)。

この問題は2002年、漢城大学の金貴玉教授が論文で発表したが、 国防部の資料室にあった関連資料は直後に閲覧が禁止された。大手メディアも無関心で、同教授は「日本を利するのか」という批判にさえ遭ったという (注5)。

日本に償いを求めながら、自国の歴史問題をうやむやにする韓国のダブル・スタンダードは、まだある。韓国はベトナム戦争に32万人を派兵したが、現地で30万人もの市民を虐殺したと言われる。市民団体「ナワウリ」の現地調査によれば、韓国軍は村々で無抵抗の住民を集めて機銃掃射を浴びせるなどし、放火も相次いだ(注6)。強姦も多発し、その結果生まれた混血児は3万人とも言われる。だが韓国はベトナムに賠償していない。

慰安婦問題の真相は、嘘だと分かっている「慰安婦強制連行説」を、韓国が外交カードに使って、日本を陥れているということだろう。事実無根の嘘で日本の信用を損ねている河野談話は、即座に無効にすべきなのだ。

(注3)『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦著)
(注4)『大韓民国の物語 国史教科書を書き換えよ』(李榮薫著)
(注5)『軍隊と性暴力 朝鮮半島の20世紀』(宋連玉、金栄編著)
(注6)『戦争の記憶 記憶の戦争』(金賢娥著)


ー歴史問題に終止符をPart4ー

東京裁判でアメリカがつくった「南京大虐殺」

「20万人の虐殺」はなかった

  • 根拠とされる遺体の埋葬数は、1946年に中華民国が  つくった架空の数字。
  • 目撃した殺人は「たったの1件」(マギー牧師)。「虐殺」は伝聞やプロパガンダでつくられた。
  • 当時、蒋介石も国際連盟も非難していない。南京陥落後、数日で両替屋が開店、3週間で電気や水道が復旧、1カ月後にはもといた人口より5万人も増えた。

「2万人の強姦」もなかった

  • 根拠とされるラーベの数字には、裏付けがない。
  • アメリカ人医師が、強姦と疑われるケースを確認したのは1件のみ。
  • 南京の医師が、中絶・出産に追われた形跡がない。

証言者は親中反日で、証言は伝聞ばかり

  • 南京にいた外国人の多くが「親中反日」。中国兵をかくまう人物もいた。
  • 外国人の証言者で、中華民国の顧問を務め、蒋介石から勲章をもらっていた人物もいた。
  • 証言のほとんどが伝聞。裏付け証拠がない。

写真はねつ造やプロパガンダ

  • 『ザ・レイプ・オブ・南京』の写真は、ねつ造や日本兵、  南京と関係のないものばかり。
  • 「日本兵に拉致される女性」(写真1)は、「日本兵に守られて野良仕事から帰る女性と子供」(写真2)。
  • 南京陥落後、日本兵と中国の市民は、良好な関係を築いていた(写真3、4)。

日本人を自虐史観に封じ込めている最大のものが、「南京大虐殺」だ。東京裁判で持ち出され、90年代後半にも、アイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』で改めて世界に知らされた。だが、この"虐殺"は、「アメリカがつくり出した架空のもの」と広く認識されるようになっている。今一度、この問題を検証する。

写真1

『ザ・レイプ・オブ・南京』に掲載された写真。「日本軍が中国を移動すると、彼らは何千もの女性を駆り集めた。彼女らの多くは輪姦され、あるいは強制的に軍事売春宿に入れられた」という説明がつけられた。人々の表情がぼやけて見えないが、実はこの写真は、戦時中、まったく逆の内容で日本の雑誌に掲載されたものだった(写真2へ)。)

写真2

写真週刊誌「アサヒグラフ」1937年11月10日号に掲載された写真。「我が兵士に護られて野良仕事より部落へかへる日の丸部隊の女子供の群れ(十月十四日、熊崎特派員撮影)」という説明が付いている。左側の子供や兵隊は笑顔で白い歯を見せ、和やかな雰囲気が伝わってくる。 )

1937年12月13日、日本軍は中国の南京を攻略した。その後、数週間にわたって、「日本兵が一般人・捕虜20万人以上を虐殺し、女性2万人を強姦した」と言われているのが「南京大虐殺」だ。しかし 結論から言えば、これは、戦後の東京裁判でアメリカがつくり出した虚構。東京裁判自体、戦勝国が検事と裁判官を兼ねて日本を裁いた「復讐の儀式」だった。

(1)「目撃した殺人は1件」1カ月後に人口5万人増

では、その虚構はどのように「つくられた」のか。

まず、東京裁判の「20万人の虐殺」の根拠とは、南京の慈善団体が埋葬したとされる遺体の数だった。しかし、11万2千人ともっとも多くの埋葬数を挙げた崇善堂という団体は、南京攻略の際、関係者が逃げて活動が止まっていた。元々、子供の面倒を見る団体で、膨大な遺体を埋葬する人員も道具も技術も持っていなかった。

この事実を突き止めた近現代史家の阿羅健一氏は、 「埋葬記録は、中華民国が東京裁判のために1946年につくった架空のもの。この点については、当時の裁判でも弁護側が反論しています。しかし裁判官は、何の裏付けもなく、証拠として採用したのです」 と指摘する。

ほかにも、虐殺の根拠とされるものに「証言」がある。通常の裁判では、証言だけを証拠に被告を裁くことはないが、日本人を悪者に仕立て上げるための東京裁判ではそれが横行した。

当時、南京にいたアメリカ人宣教師のマギー牧師は、裁判に出廷し、日本兵による数多くの殺人や強姦を報告した。だが、「あなたが実際に目撃した殺人は、何件でしたか」という質問に、「たった1件です」と答えている。 強姦についても、日本兵と中国人女性が一緒にいるところを目撃した1件だけで、彼の証言はほぼ伝聞だった。

実は占領後の南京では、日本軍の統治によって治安が回復し、数日後には両替屋が開店、3週間後には電気や水道が復旧。 1カ月後には、人口が陥落前の20万人から5万人も増えていた。

中国兵の多くが軍服を脱いで便衣兵(注)となって市民に紛れ込み、戦闘を続けたため、日本兵はこの掃討に手を焼いた。東京裁判や『ザ・レイプ・オブ・南京』では、この便衣隊の掃討も「一般人の虐殺」と断罪するが、もちろん、日本軍の行為は国際法上、問題がない。

そもそも当時、蒋介石も国際連盟も、「大虐殺」について何の非難もしていない。

(注)「便衣」とは、中国語で「平服」の意味。便衣兵とは、平服を着て一般市民のふりをしながら、ゲリラ的に戦う中国兵のこと。この戦い方は、一般市民が戦闘の巻き添えになるため、戦時国際法で禁じられている。

(2)「2万人の強姦」でも中絶・出産の形跡なし

「虐殺」の次に大きな論点が、「約2万人の強姦」だ。東京裁判で根拠とされたのは、当時、南京にいたドイツ人のジョン・ラーベが1937年1月に、上海のドイツ総領事に送った報告書だった。報告書は、「日本軍が、約2万の婦女子をおかし、数千の無辜の市民を殺害」としたが、前出の埋葬記録と同じように、数字の裏付けがないまま証拠として採用された。

一方、 アメリカ人医師のロバート・ウィルソンは裁判で、強姦されたという15歳の少女について証言したが、南京にわずか数人しかいなかった医師の証言がこの1件のみであり、日本兵によるものかどうかも定かでない。

前出の阿羅氏は、「ひと月足らずで2万件ということは、毎日700件余りの強姦が繰り返された計算になり、南京にいた日本兵が毎日5、6人ずつ犯行に及ばなければ届かない」と指摘。

また、1945年5月のベルリン陥落時には、ソ連兵によるドイツ人女性10万人の強姦事件が起き、大量の出産・中絶が報告されている。この割合を南京に当てはめると、200人の混血児が生まれる計算になるが、南京で翌年の10月に大量の出産・中絶があった形跡はないという。

(3)南京にいた欧米人は「親中反日」だった

「大虐殺」は当時、南京にいた欧米人の証言などによって既成事実化されていったが、これは彼らのほとんどが「親中反日」だったことが影響している。

南京大学教授でアメリカ人宣教師のマイナー・ベイツは、東京裁判で、「1万2千人の男女子供が殺され、8千件の強姦があった」と証言したが、彼は中華民国の顧問を務め、蒋介石から勲章をもらうほど親密だった。

また南京では、ベイツを中心にアメリカ人宣教師など15人が「南京安全区国際委員会」を組織。民間人保護の名目で「安全区」を設定し、表向き日中両軍の兵士を排除した。だが同委員会のメンバーは、安全区に入り込んだ武装中国兵をかくまうという国際法違反を犯している。

同委員会には、日本軍が行なったという殺人や強姦、略奪などの報告が中国人から次々と寄せられたが、何も検証しないまま伝聞情報を記録し続けた。メンバーの半数が日本と敵対していたアメリカ人であったことを考えれば、同委員会が「親中反日」組織であったことは当然と言えるかもしれない。

また、英国「マンチェスター・ガーディアン」紙の特派員で、オーストラリア人のハロルド・ティンパーリは、南京陥落から半年後に、『外国人の見た日本軍の暴行』で軍紀の乱れを描いたが、彼は南京に行かず、すべて伝聞情報で書いていた。しかも彼は中国政府に雇われ、反日プロパガンダとして執筆していた。

(4)『ザ・レイプ・オブ・南京』に掲載されたねつ造写真

1997年、アメリカで出版された中国系アメリカ人アイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』。日本軍の残虐行為を羅列し、「南京大虐殺はあった」と主張するが、東京裁判と同様、反日の人々の証言によるものばかりで証拠がない。これまで多くの日本の専門家が「トンデモ本」であることを証明している。なお、アイリス・チャンは2004年に自殺した。)

冒頭の『ザ・レイプ・オブ・南京』は、中国系アメリカ人女性のアイリス・チャンが1997年12月にアメリカで出版し、ベストセラーとなった。現在でも、アメリカでは、大学教授や歴史家などの識者が推薦図書や論文の資料として用いている。

同書は、東京裁判で出てきた裏付けのない証言や数値を基に書かれている上に、「市民約30万人を虐殺」「2万人から8万人を強姦」などさらに数字を増やし、その根拠も示していない。

ここでは、「南京大虐殺の証拠」として同書に掲載された写真について検証する。

まず、前ページの写真1は、同書でこう説明されている。「日本軍が中国を移動すると、彼らは何千もの女性を駆り集めた。彼女らの多くは輪姦され、あるいは強制的に軍事売春宿に入れられた」。だがこれは、元々「アサヒグラフ」1937年11月10月号の写真2で、次のような説明がついていた。「我が兵士に護られて野良仕事より部落へかへる日の丸部隊の女子供の群れ(十月十四日、熊崎特派員撮影)」

この点について、同書への反論書『「ザ・レイプ・オブ・南京」の研究』はこう指摘する。

写真3

1937年12月17日に撮影された、南京城内の街頭風景。日本軍入城から4日後だが、散髪する人や子供が笑顔を見せるなど、中国市民が日常を取り戻しつつあることが分かる(「アサヒグラフ」。発行は1938年1月12日、朝日新聞)。)

写真4

1937年12月20日、南京城内の中山路で撮影された写真。日本兵と中国人の子供たちが、おもちゃの戦車で遊んでいる様子(『支那事変写真全集(中)』。発行は1938年、朝日新聞)。)

「チャン本の写真は、やけにぼけていることに気付くだろう。(中略)このぼけは写真技術の未熟さではなく、意図的な作為とみて差し支えない。(中略)人物の表情が、ぼかしによって分からなくなった。それによって、この写真の持つなごやかな雰囲気がうち消されたのである」

同書ではその他にも、『ザ・レイプ・オブ・南京』が、「戦闘による死者の漂流死体」の写真を、「揚子江岸の市民の虐殺死体」と説明したり、無関係の痛ましい写真を、日本兵や南京の写真であるかのように紹介するなど、いかに中国のプロパガンダ本であるかを指摘している。実際に当時の日本の新聞や雑誌には、南京で日本兵と中国市民が戯れる穏やかな写真がいくつも掲載されている(写真3、4)。

根拠のない風評に基づく河野談話・村山談話

「従軍慰安婦」と「南京大虐殺」が、国内の反日勢力や韓国、アメリカなどによってつくられたものであることは明らかだ。それを無批判に受け入れて謝罪した河野・村山の両談話は、「歴史的事実として根拠のない風評を公式見解としたものである」ことは疑いない。

その結果、英霊たちに「由々しき罪悪感」を、戦後の国民に「いわれなき自虐史観」を押し付けてきた。この歴史認識の誤りによる外交・国防、経済上の損害はあまりに大きい。 河野・村山談話は、その発表時に遡って無効としなければならない。