2025年7月号記事
日本を変える本物の教養とは
ダメ政治への根本的処方箋
現代の教養の積み方では、日本は滅びるかもしれない──。
書店では、「教養」を銘打ったハウツー本が増えている。テーマは政治、経済、絵画、哲学、音楽まで多岐にわたる。
「〇〇の教養」と題した類書が増加傾向にあることは、だがしかし気になる。
時間のないビジネスパーソンにとって、「教養としての」入門書があればその分野になじみやすく、時短になる。
ただその手っ取り早さは、「雑学」の域を出ることはなく、「本来の教養」からは程遠いのではないかという疑いが頭をもたげてくる。もちろん良質の知識を含む本もあるが、悪くてただの情報、良くて知識の羅列の域を出ていないものが多い。
このような個別雑多な知識はあくまでも木の葉のようなもの。集めたところで枝にも、当然ながら本物の教養という幹にはなり得ない。
「教養」は何処へ行ったのか?
このような状況はいかにして生じたのか。大川隆法・幸福の科学総裁はこう分析する。
「日本においては、一九八〇年代までは、学歴が、一定の"入り口"では、有利な役割を果たしているところはあったのですが、九〇年代以降、日本の経済制度が崩壊し、経済発展が止まったあたりで、学歴社会がかなり壊れてきたことも事実です。
今、『これを、どのようなかたちで新しく再構築するか』という問題があり、教育の面でも、非常に迷いがあるところなのではないかと思います」(*1)
そしてこの状況下で特に軽んじられているのが、大学教育における「教養(リベラル・アーツ)」である。
大学に行くのは、「すぐに会社の役に立つ人材になるため」、より率直に言えば、「社会的地位や権力、お金を得るため」。名門大学に行く大半の若者の本音ではないだろうか。
大川総裁は、自身も卒業した東京大学の同級生の家を訪問した際、二段のカラーボックス一個分しか本がなかったことに驚きを隠せなかったと述べ(*2)、結果として「国家を背負うというより、良い成績を取って、自己愛に生きる人間」を量産する現実を憂えた(*3)。
しかし、アメリカでは、若き次期大統領候補の一人と言われるJD・ヴァンス氏をはじめ、起業家のピーター・ティール氏やイーロン・マスク氏なども教養を耕し、国の未来に責任をとろうとしている。過去のサッチャー英元首相、ド・ゴール仏元大統領など、国を立て直した政治家も同様だ。
政治に無関心な世代が続き、既成政党への建設的で意欲的な反論が生まれない国では、政治は前進しない。
果たして日本はどうだろうか。国際情勢についても「弱者に味方をすれば正義になる」といった情緒的風潮から、ロシア批判、イスラエル批判一辺倒の論調に流されやすい国民性が続いているのではないか。
そもそも「自由で民主主義的な政治体制」や「真・善・美に象徴される価値や正しさとは何か」への教育が不十分なら、お上(政府・官僚・マスコミ)の不正に異を唱え、あるべき世界を志向する国家が生まれるべくもない。
リベラル・アーツの始まりに何があったのか、古代ギリシャの思想からその背景を振り返ってみたい。
(*1)『政治哲学の原点』
(*2)『小説 内面への道』『ミラクル受験への道』
(*3)『小説 遥かなる異邦人』
※文中や注の特に断りのない『 』は、いずれも大川隆法著、幸福の科学出版刊。
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