ロシアの文豪「トルストイ」と「ドストエフスキー」の2人は、いずれも「救世主」の魂の分霊であった──。
発刊中の本誌2024年3月号の連載「新・過去世物語」では、「ロシアに降りた二人の『救世主』──神は人を見捨てたまわず──」では、この事実を詳しく紹介した。
本欄では、2回にわたって、ドストエフスキーの人生について迫ってみたい。前編では、彼の人生観を覆した、若き日の投獄体験に焦点を当てる。
作品は認められず、罪に問われて投獄され、銃殺刑になりかかる
『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』などの長編で知られるドストエフスキー(1821~81年)は、「投獄」という体験をきっかけに、独自の文学世界を築き上げた。
1821年、モスクワの貧民救済病院で働く医師の二男として生まれ、教育熱心な父と敬虔なキリスト教徒の母に育てられた。
モスクワの私塾で学んだ後、17歳でペテルブルグの工兵士官学校に入学。ロシア文学や欧州の古典および近代文学(※当時における現代文学)を読みふけり、作家の道を歩み始める。卒業後に勤めた工兵局での勤務は1年で飽きてしまい、退職して処女作『貧しき人々』(1845年)で作家デビューを果たす。
著名な文芸批評家に認められ、24歳にして、一躍「新しいゴーゴリ」と讃えられるようになった。ゴーゴリとは、当時活躍し、「ロシア近代文学の父」と称されていた著名な小説家である。
だが、ドストエフスキーの作品は評価されなかった。そして、マルクス以前に社会主義を説いたフーリエの思想を奉じるグループと交流し、密会に参加したことが罪に問われてしまう。28歳頃(1849年)に逮捕され、年の暮れに練兵場で銃殺される直前、「皇帝の特赦」によって懲役刑に切り替えられた。
命拾いしたものの、29歳から33歳までの4年ほど、シベリアのオムスク監獄で過ごす。
未来の文豪は、こうした逆境の時に、一体、どのようなことを考えていたのだろうか。
出獄後も監視を受け、あからさまに本心を語れない中で作品を綴る
ドストエフスキーは33歳で出獄(1854年)したが、その後も司直の監視を受けていたため、本心をあからさまに語らなかった。
しかし、「ゴリャンチコフ」という男を主人公にした獄中体験を綴った物語『死の家の記録』を書き、1861~62年に雑誌『時代(ブレーミヤ)』で連載。ドストエフスキーが入れられた監獄には、地域や年齢、境遇など、多種多様な罪人が放り込まれていたが、その物語にも、怒りのままに上官を殺した軍人、父を殺して遺産を遊蕩に使い果たした息子、他宗の教会を焼いて確信犯的に受刑したキリスト教徒など、さまざまな人物が登場する。
物語の中でゴリャンチコフは、「私は何年もの間、この人びとの間にほんのわずかな改悛の気配も、自分の犯罪に対するほんのわずかな反省の念も感じたことはなかった」と手記に綴っているが、それはドストエフスキー自身の実感でもあっただろう。
物語の中では、人間の暗部が事細かに描き出される。ガージンという男は喜んで子供を殺していた悪漢で、投獄されても獄内で酒を売買し、囚人に高く売りつけていた。ガージンは獄内で最も強靭で、酔っぱらうと手がつけられなくなる。暴れ始めた時に囚人が10人がかりで袋叩きにして板に倒し、上から毛布をかける。普通の人間ならば死ぬ怪我をしても、翌朝にはケロッとして起き上がってくるのだ。
それまでのドストエフスキーは、活字を読んでつくり上げた価値観をもとに、知識人として民衆を導き、救おうとしていた。
しかし投獄されると、知識人はそもそも民衆から愛されていないという現実に気づく。自分は、農村から来た頑健な囚人のようには働けない。半人前程度の仕事しかできないこともしばしば。そんな知識人の講釈を聞きたがる者はいない。「知識人が貧困や病、争いに苦しむ民衆を救う」といった幻想を捨て、自分も、周りにいる者も、等しく囚人でしかないという現実を見つめていく。
獄中生活を通して、内面に穿ち入り、人間の「光」と「闇」を直視する
その一方で、なぜ獄中にいるのか不思議に思えるような人物も描かれている。
タタールの山岳の集落に住むアリは6人兄弟の末弟で、兄の命令で旅の商人の一団を襲撃。当時、年配者の権威は絶対的であり、事件に加担したアリは4年の懲役で、兄たちと共に投獄された。