幸福の科学の元信者(以下、原告)4人が、教団に布施の返還を求めていた訴訟で、最高裁は7月21日付で教団の上告を受理しないことを決めた。これにより、教団に対して、原告が主張する金額の一部の返還を命じた東京高裁の判決が確定した。

だが、その中身を見ていくと、宗教界の根底を揺るがす重大な問題が浮かび上がってきた。

本来、尊い信仰行為、宗教行為である布施や納骨を、唯物的なモノやサービスの対価や倉庫業と同列に扱い、国家権力が宗教の教義や自治に介入することを許すような内容なのだ。

「原告は自由意思に基づいて布施を行った」と認定

この訴訟は、2012年4月、原告が起こしたもので、信仰を持っていた当時に行った、日常の布施や永代供養の申し込みや納骨壇の下賜に対する布施を返還するよう求めていた。

2014年12月の東京高裁の判決では、教団が布施を勧める際に不法な行為は一切なく、原告が本人の自由意思に基づいて行ったと認定。この点においては原告の主張を退け、多くの部分の布施の返還を認めなかった。

しかし、永代供養の申し込みや納骨壇が下賜される際に行った原告の布施については、モノやサービスを得る代わりに金を支払う、対価性のある"契約"と解釈。その部分について、教団に布施の返還を命じた。

こうした判断から分かるのは、各裁判官が、布施の精神やその霊的な意味を理解していない事実だ。

本来、布施とは、自分が所有するお金や物を差し出し、神仏の説く教えがより一層広まって多くの人々が幸福になることを願う「利他行」「慈悲行」である。また、布施は寺社や僧侶・神職に向けて差し出されるものでなく、神仏への感謝を表す「感謝行」でもある。だから、聖職者は神仏の代理人として、施物(せもつ)を恭しく受け取る。

つまり、布施を語るには、神仏への信仰から話を始めなければならない。

宗教の「聖」なる活動に、対価を持ち込めば「穢れ」となる

そもそも憲法や法律には、「宗教は聖なるもの」という考え方が入っている。憲法第20条「信教の自由」では、宗教の神聖さを俗界から守ることを目的としている。刑法第188条では、説法や礼拝を妨害することを罪とし、宗教法人法第84条でも、宗教法人に対する税務調査などは、その宗教上の特性や慣習を尊重し、信教の自由を妨げることのないように特に留意すべき、としている。

ではなぜ、宗教の「聖」の部分を、国家の「俗」から引き離さなければならないのだろうか。それは、宗教や聖職者が、神仏や天使・菩薩からの導きを受けながら、地上の人々の魂を救済していくからである。

地上に光を降ろす神仏が1円たりとも得ることがないように、そこに対価性は存在しない。宗教という「聖」なる活動に、対価という「俗」なるものを持ち込めば、それが穢れとなり、神仏の光が降りなくなる。神仏の光が降りなくなれば、その宗教が神仏の御名の下で執り行う祈願や供養などは「詐欺」になってしまう。

「布施は対価性がないからこそ、値打ちがあり、功徳がある」

大川隆法・幸福の科学総裁は『霊的生活と信仰生活/信仰とご本尊について』で、布施についてこう説いている。

「幸福の科学が信者のみなさんからお布施を受けるときも、それは商品の対価、何かの労働の対価ではありません。対価性はまったくないのです。対価性があれば、そこにすでに穢れがあり、それはお布施ではないのです。たとえ、お経を読む、説法をするなどという行為がそこにあったとしても、それは一つの機縁、よすがであって、その対価として、お布施、植福をするわけではありません。お布施は対価性がないものであり、だからこそ値打ちがあり、功徳があるのです」

「布施に対価性がない」という事実は、仏教でいうところの「三施」が、「財施(お金や物を喜捨すること)」のほかに、「法施(教えを伝えること)」「無畏施(人の不安や恐れを取り除くこと)」であることからも分かる。自分の持つ時間や才能、経験を神仏に捧げることも布施であるが、これらを布施した人々がその対価として神仏から何かをもらうわけではないのだ。

宗教法学会の理事や日本宗教学会の常任理事を務めた経験のある、宗教学者の洗建・駒澤大学名誉教授も、本誌2011年10月号のインタビューでこう語っている。「お布施は、聖職者の『サービス』や『労役』の提供に対して払われる対価ではなく、尊い宗教活動への喜捨」「宗教から派生した法律や立法機関の政治が、根源である宗教を縛るのは本末転倒ということです」

幸福の科学に限らず、一般的な宗教の概念においても、布施は「尊い宗教活動への喜捨」である。

供養は、神仏への感謝の表現形態でもある

また今回の判決では、裁判官が永代供養や納骨壇における宗教的、霊的な意味を理解していないことも明らかだ。

あの世の霊に光を手向ける永代供養については、教団の職員が経文を読み上げるある種の"作業的な行為"として捉え、魂を救済する縁となるべき納骨壇については、教団側が遺骨を管理する一種の"倉庫業的な事務"であるかのように捉えている。これは、あらゆる宗教行為を「商売」「ビジネス」としか見ていない証拠と言えるだろう。

だが、供養には、死者の冥福を祈る他に、仏・法・僧の三宝を敬うという意味もある。つまり、本来の供養とは、日ごろ神仏から光を受けていることへの感謝の表現形態であり、それが布施や寄進という形として表れる。その後の地上で起きた事情で、「返せ」というのは、やはり「聖」の部分に「穢れ」が入り込む。

国家権力の宗教介入を許せば、国民の「自由」が奪われる

今回、高裁判決を確定させた最高裁だが、最高裁は三権分立の一翼を担う司法権を握る。その国家権力が課税などで宗教の教義や自治に介入することを禁じた政教分離規定(憲法20条3項)に反した「違憲判決」と言えるだろう。

「政教分離」の意味を、「宗教が政治に関わることを禁じている」と理解している人もいるだろうが、本当は、国家権力が宗教に介入することを禁じ、国民一人ひとりの「信教の自由」を守るためのものだ。これは憲法学の常識となっている。

こうした議論の中で、「私は無宗教なので、特に『信教の自由』を守ってもらわなくてもいい」と考える人もいるかもしれないが、そこには大きな誤解がある。

なぜなら、「信教の自由」とは「内心の自由」の代表的なもの。「内心の自由」とは、「思想及び良心の自由」であり、かみ砕いて言えば、「心の中で何かを考える自由」でもある。

この「考える自由」を国家権力が制限できるのであれば、そこから派生する、言論、出版、表現、結社などのあらゆる自由を制限できることになる。つまり、信教の自由を守ることは、あらゆる自由を守ることにもつながる。

その意味で、今回の判決は、宗教界全体を揺るがすだけでなく、国家権力によって宗教や個人の思想信条に介入することを許した、政教分離規定に反する「違憲判決」と言える。

霊的な意味を理解せず、宗教を「商売」のように捉えた侮辱的な判決に対し、宗教界は声を上げるべきである。

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2014年8月号記事 東京地裁が宗教活動を否定する不当判決 納骨は倉庫業ではなく信仰行為である - The Liberty Opinion 4

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2011年10月号記事 【動画】「なぜ宗教は非課税なの?」ガチンコ論争 中村うさぎ×ザ・リバティ編集長

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2011年10月号記事 【記事】「なぜ宗教は非課税なの?」ガチンコ論争 中村うさぎ×ザ・リバティ編集長」

http://the-liberty.com/article.php?item_id=2713

2011年10月6日付本欄 「お布施」の真意を語れない伝統仏教

http://the-liberty.com/article.php?item_id=3008