週刊誌「サンデー毎日」4月29日号に、評論家の佐高信氏が、自身のコラム「政経外科」の中で「財務省に『焚きつけられた』わけではないが…幸福の科学に言いたいこと」という記事を書き、幸福の科学を揶揄している。

佐高氏の記事の内容には事実誤認も多く、信教の自由についての理解など、考え方についても間違いがあると思われるので、ここで指摘しておきたい。

まず佐高氏は、自分は「徹底的にバブルを批判してきた」のに、「幸福の科学出版で出している『Liberty』という雑誌で、何と『バブルの犯人』と名指しされた」と言っている。それは、弊誌1997年8月号の記事のことだと思われるが、そこでは、佐高氏を「バブルの犯人」ではなく「バブル潰しの犯人」として批判しているのだ。つまり180度の誤解をしているわけで、それだけですでに噴飯ものだろう。相手方の信用を落とそうとして、自分の首を絞めている格好だ。ちなみに、佐高氏は2009年の同コラムでも同じことを書いており、ずっと勘違いしたままのようだ。

また、幸福の科学グループの大川隆法・創始者兼総裁が、評論家の渡部昇一氏を「一時、師と仰いだ」とあるが、そうした事実はない。大川総裁が若かりし頃、渡部氏の著作についても愛読していたことを無理に拡大解釈した結果だろう。

さらに、記事の中では、大川総裁が大阪市長の橋下徹氏を「トリックスター」であるとし、同市長のパフォーマンスについて「嫌な傾向」と語ったかのように書いているが、それを語ったのは、財務事務次官・勝栄二郎氏の守護霊だ(大川隆法著『財務省のスピリチュアル診断 増税論は正義かそれとも悪徳か』)。佐高氏は霊言という事実もその内容も信じないのだろうが、少なくとも、幸福の科学が区別しているものを、何の但し書きもなく一緒くたにするのは、文章を書く人間として不見識というものだ。

幸福の科学と幸福実現党の関係についても誤解があるようだ。佐高氏は、政教分離の原則からして、幸福実現党の選挙活動に幸福の科学の施設を使ってはならないと語り、まるでそうした事実があったかのような言い方をしている。しかし、幸福の科学の施設について、宗教活動の一環としての政治活動に使ったことはあっても、選挙活動に使った事実は一切ない。また、政教分離が戒めているのは、国家が宗教に介入することであり、宗教による政治活動ではない。したがって、宗教団体の活動を縛る方向で政教分離を使うのは、本来の趣旨から離れ、間違っている。

佐高氏は「信仰の自由は、言うまでもなく、信仰しない自由を含む」と言う。もちろん、人は意に反して特定の信仰を強制されてはならない。しかし、この「信仰しない自由」に神仏をまったく信じない自由というニュアンスがあるなら問題だ。記事中で「大学までつくって、ただ、幸福の科学の信仰を押しつけるだけなら」などと語り、当然の権利であるはずの伝道や教育の自由をやり玉に挙げるところを見ると、佐高氏はあろうことか信教の自由を宗教弾圧に使おうとしているかのようだ。確かに、神仏を信じないことを理由に、生命や財産の自由が侵されるわけではない。しかし、重要な人権として世界で尊重されているのはあくまで「神を信じる自由」であり、「信じない自由」などの消極的な権利ではないことは知っておくべきだろう。佐高氏のように「信じない自由」の方を強調するならば、本当の信教の自由の価値を貶め、宗教蔑視の風潮を助長することになる。その行き着く先は、中国や北朝鮮などの人権弾圧国家だ。

佐高氏は左翼的スタンスの評論家として、強きをくじく言論で一部には人気があった。社民党に共感したり、バブル経済を嫌悪したり、その活動の根底には、社会的強者や富に対する深い嫉妬が感じられる。だが、佐高氏が嫉妬し批判していた人たちもそろそろ引退の年齢を迎えており、佐高氏自身の時代的使命も(それがあったとすれば)終わりつつあるのではないか。事実誤認ばかりの記事を書き、晩節を汚すことは本人のためにならないだろう。