阪神・淡路大震災の被災した光景が、『日本沈没』で描いた光景と酷似していたことから、国内外のマスコミから取材が殺到した小松左京(関連記事:「人物伝 小松左京 アナザーストーリー(前編)──『日本沈没』のシナリオを外す「新しいシナリオ」を自分たちで書くことが大事」)。
彼は、阪神・淡路大震災の惨事に胸を痛め、それ以降、重度のウツに悩まされる。
震災当時、「業火に包まれてうろうろする夢」を3日連続で見たという。そして、3日目になって、やっとそれが1945年の「阪神間の夜間大空襲の夢だとわかった」という。
そもそも、『日本沈没』の発想の源は1945年の敗戦体験にあった。
この作品は、戦後復興と高度成長を経て「のんきに浮かれる日本人を、虚構の中とはいえ国を失う危機に直面させてみよう」という趣旨で書かれたものだった(『小松左京全集完全版50』城西国際大学出版会)。
その後、小松左京は、トラウマと闘いながら、1995年4月から、毎日新聞で週一回の連載「大震災'95」をスタートさせる。「この『巨大な災害』が、私たちの社会と生活にもたらしたショックと影響の『全貌』をとらえる」ために、被災地の取材と震災に関わるプロの研究者との対談を開始したのだ。
だが、その負担は心身ともに重く、戦災のトラウマをも呼び覚ました。その結果、多作を誇る小松左京が、新しい物語を書けなくなった(『日本沈没 第二部』は人の手を介して完成させた)。
東日本大震災の後、子供たちに向けて発したメッセージ
そして、21世紀に引退し、80歳を迎えた頃、2011年3月に東日本大震災が起きる。
再び多くのマスコミから取材申し込みが殺到したが、心身の不調に苦しんでいた小松左京は、阪神・淡路大震災の頃のようには応じることができなかった。
ただ、未来を担う子供たちが心配になったのか、「毎日小学生新聞」からのインタビューには答えている。