(画像は Wikipedia より)

平成最後の「終戦の日」となった。本欄では英霊に感謝を捧げるべく、過去に掲載した「英霊列伝」を再掲する。

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加藤隼戦闘隊として活躍するも被弾して右足を失う

1918年、徳島県に生まれた檜與平は、陸軍航空士官学校卒業後、飛行第64戦隊に配属されます。以来、通称「加藤隼戦闘隊」の一員として、マレーやシンガポール、パレンバン、ジャワ、ビルマなどの航空撃滅戦に参加し、華々しい戦果を上げました。

ビルマ航空撃滅戦では、加藤建夫部隊長を失い、隊員一同悲しみに暮れるも、加藤部隊長の遺した伝統を守り、より団結して戦い抜こうと決意します。

1943年11月25日、檜は一式戦闘機「隼」二型で、アメリカ軍のP-51ムスタングを撃墜。これは日本軍初の快挙でした。

その2日後、檜はアメリカ軍の爆戦連合を迎撃した際、4機を撃墜した後、P-51の奇襲攻撃を受け被弾。機関砲弾が右足に命中し、膝下10cmから先を飛ばされてしまいます。

全身がしびれ、意識が朦朧としながらも、巻いていた白いマフラーで止血を行い、辛うじて飛行可能だった愛機を操縦し、基地への帰還を目指しました。

足からの出血は漏れ出した滑油とともに座席を浸し続け、遠のく意識の中、檜は聞き覚えのある声を聞きます。

「檜、こんなところで不時着してはいかんぞ。基地まで、がんばれ!」

それは、亡き加藤部隊長の声でした。「はい、基地まで帰ります」と檜は力を振り絞り、傷口を縛り直して、針路を定めます。

睡魔と幻覚の中、自爆を誘う死神のような声が、心に幾度となく響いてきたといいます。しかしそのたびに、加藤部隊長の力強く懐かしい声が、それを打ち消しました。そして、気づけば隣に亡き加藤部隊長の機が見え、ぴたりと編隊を組んで飛び続けたと、檜は後に記しています。

ふと気づくと、檜はビルマ・ラングーン(現ミャンマー・ヤンゴン)の基地の近くまでたどり着いており、片足でどうにか着陸。駆けつけた兵隊と二言三言交わしたのち、意識を失いました。

血のにじむリハビリをくり返し、ついに大空に復帰

兵站病院に搬送された檜は、傷の痛みよりも、精神的な苦悩に悩まされました。「『自分には残された任務がある』と信じ、自爆せず決死の思いで基地に帰り着いた。しかし義足でもう一度、飛ぶことができるのだろうか」。そのような思いが頭を支配していたのです。

戦闘機は足で主な操作を行うため、義足での戦線復帰は前例がなく、通常なら傷痍軍人として、地上での任務や後進の育成などを行うことが一般的だったとされます。

しかし檜は、「義足でもう一度飛びたい。隊に帰りたい」と、戦線復帰を決意。内地の病院に転院し、治療のかたわら、厳しいリハビリに励みました。

ジェラルミン製の義足は、最初は一歩踏み出すだけでも強烈な痛みが走ります。しかし檜は朝のまだ暗いうちから起き、訓練を続けました。厳しいリハビリに患部からは血が噴き出し、腫れあがります。朝は義足がなかなか入らず、あまりの痛みに涙を流しながら装着していました。

やがて箱根に転院し、箱根街道の歩行訓練にだいぶ慣れたころ、檜は頼み込んで自転車や馬に乗る訓練の許可をもらいます。箱根の坂を全力で下り続け、戦闘機の速度の感覚をよみがえらせていったのです。

受傷してからちょうど1年後、檜は戦闘機隊の総本山と呼ばれる明野陸軍飛行学校に配属されます。異例中の異例ともいえるこの復帰は、かつての仲間やリハビリ中に出会った大先輩らの尽力もあってのことでした。この時、檜は「天はみずから努力する者に道を与う」という教訓を得たと後に回想しています。

教官として大空に復帰した檜ですが、足から伝わる感覚で操縦ができないため、左右の揺れを見て、勘で飛行するしかありませんでした。少しずつ感覚を取り戻すことはできましたが、両足での微妙なブレーキ調節が必要になる着陸時は、心臓の鼓動が体中に感じられるほどの緊張だったといいます。

かつての技術を駆使して、高度4千メートルまで上昇し、垂直旋回や宙返り、横転など、縦横無尽に乗り回すことができましたが、部下である教官たちは、義足の上官を恐れてか、空中での接近を避け、地上でも信頼しきっていないそぶりを見せます。

檜は「戦闘隊で、信頼がないことは許されない」と、あえて学生たちの前で、教官全員で飛行機を接近させての模範戦闘を行いました。檜の飛行技術に、部下も学生も舌を巻き、義足の檜を中心に、戦闘隊に必要な信頼が生まれたのです。

ついに因縁のP-51を撃墜 右脚の敵を討つ

やがて戦局は激しさを増し、檜が育てた学生たちは各地へ飛び立っていきました。檜も高い技術を買われ、空中勤務者・地上勤務者からなる精鋭飛行第111戦隊第2大隊長として、第一線での戦闘に復帰します。

当時は戦闘機が不足しており、機の型によっては、義足での操縦が難しいものもありました。檜は常に工夫を凝らし、ある時は義足を半分に切ってでも操作を行えるようにしたのです。

そして1945年7月16日。伊勢湾上空に現れた10倍近くの敵機を迎えての戦闘で、檜は自らの片足を失わせた仇敵と同型であるP-51と因縁の再会を果たします。同機はビルマ戦当時より格段に性能が向上しており、大戦における最高傑作とも呼ばれていました。

義足のため踏ん張りがきかず、安定しない戦闘機を、檜は血のにじむような訓練で培った技術でカバーし、接戦の末に撃墜します。そしてその約1カ月後、日本は終戦を迎えたのです。

片足を失いながらも、「もう一度大空に復帰する」という志と努力、執念でリハビリと訓練を重ね、前例のない戦列復帰を成し遂げた檜與平少佐。その志の原点には、「祖国を守る」という思いがありました。

檜は戦闘隊時代を綴った自伝『つばさの血戦』のあとがきに、戦争が二度と起こらないようにという思いとともに、こう記しています。

「――国を挙げて戦わねばならない事態がきたならば、私はいまでも操縦桿をにぎって、祖国防衛の第一線に馳せ参ずる気概をもっている。その国に生をうける者は、危急存亡のさいに、祖国の御盾となるのは、当然の義務であろう。」

「義足のエース」を支えたのは、「日本を守る」という愛国心でした。このような英雄たちのおかげで、今の日本があるといえるでしょう。航空自衛隊入間基地内の修武台記念館には、檜の使用した義足が展示され、人々に勇気と希望を与え続けてきました。

(駒井春香)

(参考書籍)
『つばさの血戦』(檜與平著、光人社NF文庫)
『サムライの翼』(鈴木英次著、光人社NF文庫)

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