香川県高松市の丸亀町商店街。周辺人口が1千人から75人にまで落ち込んだが、復活を遂げつつある

2018年5月号記事

人口が減っても客は増える

シャッター街、赤字企業の V字回復 物語

人口減少による衰退を乗り越え、奇跡の復活を成し遂げた、地方のお店や商店街の物語に迫る。

不況・業界不振・ジリ貧にあえぐ、あらゆるビジネスパーソンのヒントにもなるはずだ。

(編集部 小川佳世子、馬場光太郎、片岡眞有子)


contents


香川

「ジリ貧」「人手不足」を救った

「うまい、おもろい」の哲学

香川県小豆島にある「ヤマロク醤油」を復活させた、山本康夫社長の“判断"に迫る。

ヤマロク醤油五代目

山本康夫

(やまもと・やすお)

2001年に五代目社長に就任。

「継がんでええ……」

1994年、山本康夫社長は、名古屋の大学を卒業後、実家の醤油屋を盛り上げようと香川県・小豆島へ帰った。しかし、父に拒まれた。

小豆島にある「ヤマロク醤油」は、ここ20~30年の不況で、売上げは減り続けていた。気づけば、倒産寸前の貧乏暮らし。父は"地獄"を息子に継がせるくらいなら、自分の代で潰すつもりだった。それが愛だった。

そんな店を、康夫さんは後に、世界から客が来る名店に生まれ変わらせる―。

(1)自社の「魅力」が全ての原点

私たちの食卓に欠かせない、醤油。その99%は、ステンレスの大型タンクでつくられている。しかし、わずか1%だけ、昔ながらの木桶で仕込まれる。ヤマロクは、そんな醤油蔵の一つだ。

蔵に入ると、裸電球で照らされた木桶がずらっと並ぶ。古いものだと100年ものだという。禅堂のように静かな空間だが、壁と木桶にすむ何百種類もの醗酵菌が、活発に働いて醤油をつくっている。その蔵独自の"生態圏"が、大企業には真似できない独自の味を生み出しているのだ。

康夫さんは、木桶を混ぜる父の姿を見て育った。とはいえ島を出るまでは、家の醤油しか口にしたことはなく、「味の深さ」など、意識することもなかった。

「醤油、しょっぱ。まずい」

大学進学で、島を離れた。外で食事をして、初めてヤマロクの「格」を思い知った。

康夫さんはうまい醤油づくりを継ぐべく、島へ帰る。しかし冒頭のように、ヤマロクは親の代で"潰れる運命"になっていた。

やむなく康夫さんは、地元の佃煮メーカーに就職した。営業職として、大阪や東京の小売店を回る。無添加・高品質の佃煮を手に、自信をもって「店に置いください」と頭を下げた。

しかし、現実は厳しかった。多くの小売店にとって、味は二の次だった。

「価格と量とパッケージ」

どの店でも、この3つだけが関心事だった。

小売店に並ぶ安い佃煮は"偽物"ばかり。乾燥のりを、20倍にも膨らませ化学調味料やカラメル色素を入れる。箸でつまんでも、繊維が引っかからない。消費者は、それを佃煮だと思わされ、さらに値段しか見なくなっていた。

この世界で佃煮を売る日々に、虚しさがつのっていた。

父の姿を思い出す。どんなに、木桶でいい醤油を仕込んでも、業者に値切られていたっけ……。

そんなある日、東京の高品質食材を集めた店で、見覚えのある醤油ラベルが目に入った。

ヤマロク醤油―。

驚いて店員に話を聞いた。やみつきになった客が、わざわざ取り寄せていると説明された。

心の中で、何かが動いた。

うまいものを、消費者は分かってくれる。うちの醤油はうまい。でも、消えかけている……。

康夫さんは、30歳を前に会社を辞め、再び父に頭を下げた。

「醤油屋を継がせてくれ」

父は渋々受け入れた。

次ページからのポイント

「濃いリピーター」づくりから

人手不足で仕事を絞り込む

立地より「ニッチ」で戦う