中間調査報告書を公表し、謝罪する三菱マテリアル執行部(ロイター/アフロ)

《本記事のポイント》

  • 羨望されてきた「ものづくりの精神」が崩れつつある!?
  • 江戸時代から続いてきた日本人の「経済倫理」
  • 不祥事を「メイド・イン・ジャパン」を立て直すチャンスに

「メイド・イン・ジャパン」に、何が起きているのだろうか。

2017年は、神戸製鋼グループ、日産、スバル、三菱マテリアルや東レの子会社など、日本の製造業を代表する大手メーカーの不祥事が相次いだ。

「シェアや収益を優先して、品質を軽視していた」

三菱マテリアルの子会社が、製品の検査データを改ざんした問題について、28日に公開された調査報告書はそう指摘している。

「経営陣の品質保証への関心が低い」

東レ子会社のデータ改ざんについて27日に公開された調査報告書も、同様の指摘をした。東レについては何より、他社の不祥事があって初めて不正を公表した姿勢が、問題視されている。

日本企業の「品質軽視」に対する、海外の分析も痛い。

英BBCは、「日本株式会社に何が起きているのか?」と題した論説を放送した。「大企業はかつて、安定的で予測可能な成長市場に身を置いていた。しかし状況が変わり、一部の企業は手抜きという手段に訴えた可能性がある」という専門家の分析を紹介している。

1990年代以降の長引く経済の不調と焦り――。そんな中で、「ものづくりに異常なほどの丹精を込める」という日本の美徳が、すり減ってしまいつつあるのだろうか。

羨望の目で見られてきた「ものづくりの精神」

だとすれば、この国は今、何か大事なものを失おうとしている。

日本人の「勤勉」で「まじめ」な国民性は、日本が高度経済成長を成し遂げた要因として、しばしば挙げられてきた。

そこから来る「ものづくりの精神」は、世界中から羨望の眼差しを向けられてきた。

1997年、韓国の橋があちこちで倒壊する事故が起きた。それらは、1960年代から70年代に架けられた橋だった。しかし、日本統治時代に日本が架けた橋で倒壊したものは一つもなく、いずれも「まだまだ持つ」強度だったという。

元韓国籍で日本に帰化した日本評論家の呉善花(オ・ソンファ)氏は著書で、こうした「ものづくり」に対する日韓の姿勢の違いが、韓国が日本のようなレベルの製造業を持てず、経済が限界を迎えている理由であると指摘している(*1)。

韓国人は、「ケンチャナヨ(まあ、いいじゃないか)」という精神が強く、完璧なものをつくろうという意識が低いという。呉善花氏は、こういう国民性では「ものづくり」は発展しないと嘆く。

こうした「羨望の声」を聞くにつけても、「このままでは日本が、日本でなくなってしまう」という懸念を抱かざるを得ない。

日本人の仕事観を生んだ江戸時代の思想

ここは、原点に返りたい。

そもそもなぜ日本人は、「異常なほど丹精に仕事を仕上げる」国民性を備えるようになったのだろうか。

『「空気」の研究』などの著作で知られる山本七平は、日本が明治と戦後における、「奇跡」のような経済成長を遂げた要因として、江戸時代の16世紀から育まれてきた「日本的な資本主義の倫理」があったと指摘する(*2)。

その倫理は、「仕事というのは、純経済的な行為ではなく、仏行である。宗教的な精神的充足を求める神聖な業務である」という仕事観だ。

源流にあるのは、江戸初期の僧侶・鈴木正三の教えや、中期に活躍した思想家・石田梅岩の教え。彼らは、日本に根付く様々な宗教と経済の原理を融合させ、人々に定着させていったという。

その中でもおもしろいのは、「利益の追求」の位置づけだ。

基本的に、仕事の"目的"として利益を追求することは、仏教で言う「貪欲」として否定されている。しかし、"結果"としての利益は否定しない。「正直」を旨として、一心不乱に仕事をしていれば、相応の「天の福」がもたらされるのは自然なことだというのだ。

しかし、利益ばかりを優先すると、道を外す。「万人に憎まれ」「天道のたたり」にあって、破産してしまう――。

一連の製造業の不祥事にあてはめると、ぎくっとする話だ。

その感覚は明治以降の日本人にも、脈々と流れてきた。企業に神棚が置いてあったりするのは、その表れであるという。

山本七平は「日本はこの状態で明治を迎え、同時に戦後という最悪の状態を乗り切ったわけである」と分析している。

ドラッカーも重視した「神が見ている」という姿勢

こうした仕事観は、経営学者ピーダー・ドラッカーも重視していた。

ドラッカーは著書で、ギリシャの彫刻家フェイディアスの逸話を引き合いに出している。彼が、アテネのパルテノンの屋根に建つ彫刻群を完成させた時、彫像の請求書を見て、アテネの会計官は支払いを拒んだ。会計官は「彫像の背中は見えない。誰にも見えない部分まで彫って、請求してくるとは何ごとか」と言う。それに対してフェイディアスは「そんなことはない。神々が見ている」と答えた。

ドラッカーは、「成果を上げ続ける人は、フェイディアスと同じ仕事観を持っている。神々しか見ていなくても完全を求めていかなければならない」(*3)と語っている。

つまり日本人は、「経営学の父」が言う「成果を上げ続けるための仕事観」を、国民性レベルで身につけていた恐るべき民族だったということだ。

まずは、そうした歴史・国民性に誇りを持つことから、「日本的職業倫理の復活」は始まるのではないか。

不祥事は「チャンス」でもある

「メイド・イン・ジャパン」のブランドは、まだ完全に崩れ去ったわけではない。

BBC放送も、好ましくないスポットライトが日本企業に当たることで、「利益の増加だけに焦点を当ててはいけない」という考えが広がり、日本の製造業にいい影響を与えるという専門家の分析を紹介している。

「北京商報」をはじめとする中国メディアも、「それでも侮ってはならない」というコラムで、「日本の製造業が世界市場に誇る分野の広さ、製品の品質の高さは依然として計り知れない。職人気質や生産方式、経営理念はやはり世界の製造業にとって生けるお手本」と指摘している。

日本人は一連の不祥事を、「改めて兜の緒を締めて仕事に臨む、チャンスを得た」と考えるべきだろう。

(馬場光太郎)

(*1)呉善花『超・反日 北朝鮮化する韓国』(PHP研究所)
(*2)山本七平『山本七平の日本資本主義の精神』(ビジネス社)
(*3)P.Fドラッカー『プロフェッショナルの条件』(ダイヤモンド社)

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