勝頼が自害に至る様子を描いた、歌川国綱作「天目山勝頼討死図」。

NHK大河ドラマ「真田丸」が、第2回放送の「決断」で、視聴率20.1%(関東地区)を記録した。20%の大台突破は、2013年の「八重の桜」以来、3年ぶりとなる。

これまでのシーンを沸かせたのは、主人公・真田信繁ではなく、俳優・平岳大氏が演じる武田家当主の武田勝頼。第1回「船出」では、お家の危機を迎えたシーンで、「もし父(信玄)がいれば……。そうだな、こんなことにはならないか……」と無念そうに語り、視聴者の涙を誘った。

一般的に勝頼は、武田家を滅ぼしたため「無能」と評価されてきた。「無能な武将から、学ぶものは何もない」と切り捨てられがちだが、果たしてそれでいいのだろうか。

勝頼は偉大な信玄を超えたかった

信玄の四男である勝頼は、偉大な信玄を超えようと、数々の戦功をあげていく。

1574年2月、武田軍は、美濃(岐阜県)の織田領に侵攻し、明知城を陥落。直後の6月には、今度は、遠江(静岡県西部地方)の徳川領を侵攻し、信玄が落とせなかった堅城「高天神城」を落城させ、東遠江をほぼ平定した。

想定を超える勝頼の侵攻ペースに、信長は恐怖した。しかし、武勇に頼った勝頼のおごりは、75年の「長篠の戦い」で思わぬ敗戦を招いた。

「勝頼は強すぎたる大将」

武田家家臣の奥平信昌が、75年、徳川家康の調略によって勝頼を裏切る。「裏切り者を野放してはならない」。そう思った勝頼は同年5月、1万5千の兵で長篠城を包囲した。これを受け、織田信長は、家康軍を含む3万8千の兵で進軍。勝頼は、重臣の山県昌景などから「兵力が少なく、勝算は薄い」と撤退を進言されたものの、決戦を挑んだ。

もとより優勢であった信長だが、武田軍を確実に撃破するための布石を打っていた。

信長は、戦国最強とうたわれた武田騎馬隊を阻む「馬防柵」を事前につくり、その裏に、3千挺ともされる「鉄砲隊」を配置。戦では、鉄砲を機関銃のように速射する、いわゆる「三段撃ち」で、武田軍をなぎ払った。結果、多くの重臣を死なせた勝頼の求心力は失われ、後に裏切り者が相次ぎ、滅亡に至ってしまう。

勝頼の敗因は、向こう見ずの勇気を頼みにした「蛮勇」だ。軍学書『甲陽軍鑑』は、勝頼を「強すぎたる大将」と記すほどで、勝頼は、信玄を超えようとする「焦り」により、身を滅ぼす原因となった。

武田は滅んでも、日本は滅びず

だが、勝頼の蛮勇や焦りだけでは、説明は十分ではない。信長が編み出した「三段撃ち」は、一説に、ヨーロッパよりも約100年先取りした戦法とされており、勝頼は「軍事的イノベーション」を前に、なす術がなかったのだ。勝頼を「無能」の一言で切り捨てるのは、あまりにも酷ではないだろうか。

長篠の戦いに衝撃を受けた他の戦国大名は、我先にと鉄砲を大量に調達し、実戦に投入。「日本全国が鉄砲でハリネズミ化」したために、当時、世界中を植民地化していった欧米の侵略主義が食い止められた。その意味で、武田家は滅んだものの、日本国民は、「欧米の奴隷」にならずに済んだのだ。

戦国時代は、単なる領土争いという小さな視点ではなく、世界的なイノベーションを起こしたスケール感の伴った時代と見るべきだ。勝頼の物語から、悲運な最強大名が滅びに至るという栄枯盛衰だけを感じ取るのは物足りない。

(山本慧)

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