全国のテレビで中継された南北会談の様子(NHKニュース映像より)
《本記事のポイント》
- ヒトラー登場の裏で、実は盛り上がっていたイギリスの「平和主義」
- ヒトラーの「和平」を信じては裏切られる……この繰り返し
- 先の大戦の教訓はむしろ「宥和の危険性」
"歴史的な和解"だった。
会談から帰った首相を空港で待っていたのは、大衆の熱狂的な歓声。そこで首相は、「共同声明」が書かれた紙を掲げ、笑みを浮かべながら振って見せた。声明にうたわれていたのは、「両国の相互不戦」と「地域の平和」。
「戦争が避けられた」という安堵感に、各メディアも一斉に、賛同を示した――。
これは、先日行われた南北会談の話ではない。第二次世界大戦前夜である1938年、イギリスのネヴィル・チェンバレン首相が、「ミュンヘン会談」から帰国の途についた際の様子である。
会談の相手は、ナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラー総統。
内容は「戦争を起こさない代わりに、チェコスロバキアのズデーテン地方をドイツに譲り渡す」というものだった。ヒトラーは「もうこれ以上の領土的な野心はない」と表明し、イギリスの人々を大いに安心させた。
この「宥和(=融和)政策」に味をしめて暴走したドイツが、ロンドンなどの主要都市に大規模な空爆を行ったのは、わずか2年後のことである。
今、朝鮮半島で南北首脳が「融和ムード」を演出している。日本の一部マスコミも「朝鮮半島に新たなページが開かれつつある」(28日付朝日新聞社説)などと歓迎している。
しかしこの雰囲気が、戦争前夜であることに気づかずに「平和主義」と「楽観ムード」に酔いしれていた当時のイギリスと、どうしても重なる。
ヒトラー登場の裏で盛り上がるイギリスの「平和主義」
ヒトラーがドイツの首相になったばかりの1933年頃、イギリスでは「軍縮によって平和を実現しよう」という気運が最大限に高まっていた。
例えば、"リベラルな学生運動"とも言える動きも盛んだった。オックスフォード大学の模擬議会で、「本院はいかなる場合にあっても国王と国のために戦わない」という決議を行い、注目された。2015年夏に日本の国会議事堂前で安全保障関連法案に反対する学生がデモをしていた様子を彷彿とさせる。
当時のイギリスには、ヒトラーの脅威を認識している政治家はほとんどいなかった。「この国はいつか必ず侵略戦争を起こす」と見抜いていたのは、ヒトラーの『わが闘争』を読んでいた後のイギリス首相ウィンストン・チャーチルくらいだった。しかし当時の空気の中では「無駄に恐怖を煽っている」「戦争好き」としかとられなかった。
後のハリファックス外相は、イギリスの「平和主義」をこう振り返る。
「英国民は何年間もの希望的考えから、『自分たちが戦争を悪いものだ』と、それほど明確に見なしているのだから、『他の皆も同様に考えている』と信じるようになっていた」
まるで、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」(日本国憲法より)している、今の日本を形容するようだ。
国より党を優先する"保守"政党
「政局のために、本音を言えない保守与党」というのも、今の日本に重なる。
当時のイギリスの政権は比較的右寄りの保守党だった。ドイツの脅威を感知している政治家もいないわけではなかった。しかし、選挙で有権者の受けが悪く、労働党からも激しく批判される軍備拡張には踏み切れなかった。
例えば1933年当時のスタンリー・ボールドウィン首相は数年後、議会でこう弁明している。
「(再軍備を訴えたところで)当時この平和主義を唱えている民主国が、その叫びに呼応したと誰が思うのですか?」「これ以上に選挙の敗北を招くものが、他にあろうとは思われません」
こうした姿勢について、チャーチルは「国よりも党を優先させた」「巧妙な党管理者」と批判している。「管理者」とは、「世論や党内を説得するリーダーシップを発揮せず、組織の取りまとめだけに長けている」ことを皮肉る言葉だ。
かくして、イギリスの「平和主義」は、ドイツに軍拡の猶予を与えた。
ヒトラーの「領土的野心はない」を皆信じた
ヒトラーは1936年、とうとう領土的野心をむき出しにし始める。第一次世界大戦後に、「軍を置いてはいけない」という取り決めになっていたラインラント非武装地帯に、陸軍を進駐させたのだ。
「この段階でイギリスが強硬策に出ていれば、第二次世界大戦の芽を早く摘めた」という意見は多い。
しかし、この侵略行為を前にしても、イギリスは「目覚め」なかった。ヒトラーは進駐後、「ヨーロッパに領土的野心はない」と表明し、今後25年間の不可侵条約まで提案する。そのためイギリスは、その侵攻を阻む判断はしなかったのだ。
まずは軍事力をちらつかせて緊張感を走らせる。その直後に、和平提案をして、安心感とともに受け入れさせる。これが、ヒトラーの手法だった。
南北会談での「融和ムード」についても、昨年における北朝鮮の強硬姿勢との落差により、より大きな安堵感を生んでいる面はあるだろう。
しかし、その和平も嘘だった。2年後には約束を破り、オーストリアを併合したのだ。ヒトラーは領土も、戦力も、着々と拡大させていった。
繰り返される「宥和」と裏切り
ヒトラーが次に狙ったのが、チェコスロバキアの領土だった。ヒトラーはまた、要求が満たされなければ、戦争をも辞さない姿勢を見せた。
当時、いわば「ヨーロッパの警察官」の立場だったイギリスは、その仲介役をする形になった。するとイギリスも「攻撃対象になりうる」として緊張が走り、防空壕を掘り、ガスマスクを調達する動きが見られ始めた。昨年、盛んに「国民保護」が議論された状況にも似ている。
そこで首相であったチェンバレン氏は、チェコスロバキアを見放し、「宥和」する方針を決めたのだ。
チェンバレン首相は、ヒトラーと何度か交渉した。その感触について周囲に「ヒトラー氏が英国との友好維持に非常に配慮していると自分は信ずる」と語っていた。
こうしてミュンヘン会談において、冒頭の共同声明が出されたのだ。
首相は、国民やメディアの歓迎を受けた。それのみならず、国王ジョージ6世からも「その忍耐力と決断によって、英帝国のすべての同胞たちの恒久的感謝を獲得した」と賞賛する手紙を受け取った。
そんな様子を見たチャーチルは演説で、「これが事の終わりと考えてはならない。これは清算の始まりにしかすぎない」と、"水を差した"。宥和賛成派からは、批判が殺到した。ヒトラーも彼を、「戦争挑発者」と呼んだ。
先の大切の教訓はむしろ「宥和の危険性」
しかしその後、チャーチルの読みの通り、ヒトラーは領土拡張を加速させた。そしてイギリスは、十分に巨大化してしまった後のドイツと、泥沼の戦争に突入しなければいけなくなったのだ。イギリス各地が空爆を受け、多くの若者が兵として命を落とした。
チャーチルは、自身が活躍したこの戦争そのものについて、「無益な戦争」「世界に残されていたものを破壊しつくしたこんどの戦争ほど、防止することが容易だった戦争はかつてなかったのだ」と評する。
そして、「慎重と自制の助言が、いかに致命的な危険の主因となる可能性があるか、あるいは、安全と平穏な生活のために採用された中道が、逆にいかに災害の中心点に直接結びつくものであるか」という言葉を、後世に伝えている。
日本人は先の大戦から「軍備が戦争を生んだ」という"教訓"を引き出した。しかし、同じ戦争におけるヨーロッパでの教訓は、「安易な平和主義・宥和政策が、戦争を生んだ」というものだったのだ。
そう思うと、先日の南北会談の和やかな雰囲気を見て、どうしても背筋が寒くなる。
(馬場光太郎)
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