2021年5月号記事

地域シリーズ・神奈川

コツコツと努力を積み上げ大を成す──

コロナにも負けない二宮尊徳精神

二宮尊徳の出身地・神奈川県に今も残る、
尊徳が遺した積小為大や報徳の精神を探った。

(編集部 駒井春香)

校庭などに佇む、薪を背負って本を読む二宮金次郎像が記憶にある人も多いだろう。

勤勉や勤労の精神を体現する二宮尊徳。その生涯は、幼少時に働きながら読書に勤しみ、自ら開墾した菜種の油で学んだ小田原での日々が出発点となっている。

歩きながら学ぶ

尊徳(金次郎)は1787年、相模国足柄上郡栢山村(現・神奈川県小田原市)で、農家の長男に生まれる。病弱な父に代わり一家を支えるが、14歳で父が亡くなり、家計はさらに困窮。尊徳は夜明け前から山で薪を取り、夜更けまで縄をない、草鞋を作った。多忙な日々の中で、「聖賢の道(偉人の教え)を知らず過ごすのは残念だ」と、苦労して『大学』を入手。山道の往復に目を通した。

やがて母も亡くなり、16歳の尊徳は伯父に引き取られる。昼は働き、夜は学問に励むが、伯父は「油がもったいない」と勉強を禁じる。そこで尊徳は自ら荒れ地に菜種を撒き、油に換えて灯かりにした。それも禁じられると、光が漏れないよう衣で隠し、忍んで読書を続けた。

やがて荒れ地を開墾し、捨て苗を植え、一俵分のコメを収穫する。「小を積んで多とするのは自然の道なのだ」と感激した尊徳は、質素な生活で蓄えを続け、ついに田畑を買い戻し、家を再興した。

努力が復興への道

その頃、千両余りの借金に苦しむ小田原藩の家老・服部十郎兵衛は尊徳の噂を聞き、教えを乞う。尊徳はまず、「自分に厳しくあることが大事」と叱責。質素な食事や衣服を基本とさせ、贅沢を慎むよう進言し、「分度の法(*)」を立て、必要経費以外は貯蓄するよう取り仕切る。

5年後、借金は完済し、さらに3百両余った。うち百両をお礼として受け取るよう乞われた尊徳は、服部家の家人らの忠義を称え、「ご主人からです」とその百両を分かち与えた。十郎兵衛や家人らはその心清さに感動した。

やがて尊徳の噂は小田原藩主・大久保忠真の耳に入る。旗本の下野国(栃木県)桜町領の財政再建を託され、現地を視察した尊徳は「土地は痩せ、民は怠け者ばかり」と問題点を指摘。

「金を与えては、奪い合うばかりでかえって再興できない」とし、「人々が心を入れ替えて荒れ地を耕し、農作業を行い、蓄えを続ければ必ず再興できる」と断言。そして不惜身命の思いで故郷・小田原を出て、桜町に移住する。

日の出から夜更けまで村を歩いて田畑や民の様子を調べ、「手本になれば」と、質素倹約を旨として暮らした。怠け者を励まし、時には叱り、よく働く役人や農夫を褒め称えた。その嘘のない姿に人々は次第に敬服し、真面目に農業に打ち込む。そして桜町は再興を遂げた。

その後、尊徳は農村復興の神様と仰がれ、数多くの村や藩を救済。灌漑用水の不備などを指摘し改善するだけでなく、時には藩主らの考え違いを雷のごとく叱りつけ、人の道を説いた。

生涯を復興事業と人々の救済に捧げた尊徳の根底にあったのは「至誠」である。神道、仏教、儒教を深く学んだ尊徳は、困窮艱難は天が与えた試練であるとして、「世を救い、人を助け、村々を再興する」という神願を立てた。

「世の中に誠の大道は只一筋なり」と、神仏に向く道を歩むことこそが誠であるとした尊徳の、至誠に基づく報恩の精神は、たゆまぬ信仰心によるものだった。

(*)収入に応じて支出の限度を定め、その範囲内で生計を営み、残りを蓄えておこうとすること。

 

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