2015年7月号記事

第34回

釈量子の志士奮迅

釈量子

(しゃく・りょうこ)1969年、東京都生まれ。國學院大學文学部史学科卒。大手企業勤務を経て、(宗)幸福の科学に入局。本誌編集部、常務理事などを歴任。2013年7月から幸福実現党党首。

釈量子のブログはこちらでご覧になれます。

http://shaku-ryoko.net/

若者たちが特攻前夜に考えたこと

――軍人たちの心は「侵略者」か

夏の装いが目につく季節となりました。この時期は、日本がちょうど70年前、沖縄にて対米戦の最終局面を迎えていたころ。そこから原爆投下などを経て、8月の終戦へ至ります。

その歩みを追うように、これから報道などで、当時に想いを馳せる機会が増えるでしょう。

「沖縄を守るため」「親、兄弟を守るため」

地頭薗さんは亡くなった戦友たちに思いを馳せながら、当時の軍人たちの想いを語ってくれました。

知覧陸軍飛行場より出撃する一式戦闘機「隼」。

あの時代を戦った方々の想いを、この耳で聞かなければならない――。

私はそう思い、5月3日に鹿児島県南九州市の知覧平和公園で行われた「知覧特攻基地戦没者慰霊祭」に参列させていただきました。知覧は、沖縄戦に向け439人が特攻出撃した場所です。

61年続く慰霊祭の発起人が、地頭薗盛雄さん(左写真)。この方は元特攻隊のパイロットで、19歳のとき、特攻に向かう途中で、終戦の知らせを受けました。

特攻せんとする軍人の心境を知る、数少ない生存者であるご本人に、当時の想いを伺う機会を頂きました。

巷では特攻隊に対し、「洗脳されていた」「テロだった」という見方があります。

しかし地頭薗さんは、「当時の自分には『天皇陛下のために死ぬ』という発想はほとんどなかった」。あくまでも、「沖縄を守りたい」「自分が死んで、戦果を挙げることで、親や兄弟を守りたい」という思いだったと、当時の心境を語ります。

出撃前夜、地頭薗さんは共に出撃する戦友と最後の食事をし、宿舎の外でお互いに別れを惜しんだそうです。そこで一同の口から自然に出てきたのが、この歌でした。

「仰げば尊し 我が師の恩
教の庭にも はや幾年
思えばいと疾し この年月
今こそ別れめ いざさらば」

若いころから軍事訓練を受け、恋も知らない若者たちが「家族を守りたい」「お世話になった方々への恩を返したい」という透明な想いで、飛び立ったのです。

戦友たちが先に特攻する中、紙一重の差で生き残った地頭薗さん。70回忌となるこの慰霊祭は、ご本人にとっても特別なものでした。慰霊の言葉を読み上げると、戦友たちが「ありがとう」と言う声が聞こえてきて、涙が止まらなかったそうです。

「彼らの崇高な精神を、後世に伝えたい」。地頭薗さんは私に、こう強く語ってくれました。

自虐史観を洗い流す先人たちの愛

安倍晋三首相はこの夏、新談話を発表します。「村山談話」に書かれた「侵略」「植民地支配」「謝罪」という言葉を入れるかどうかをめぐり、有識者懇談会などでは激しく議論されています。

しかし、国際法上も「侵略」という言葉の定義は定まっていません。「日本は悪だった」という戦勝国の一方的な価値判断を押しつけられているだけなのです。

今一度、日本が侵略国家だったのか否かを検証するべきです。その際の基準の一つとして、「戦争の渦中にあった人たちの心に愛や大義があったかどうか」を振り返るべきだと考えます。

当時の指導者や軍人に「日本民族以外は劣っている」という差別意識や、「植民地支配で搾取しよう」という欲得があったのか。もしそうなら、歴史の見直しや国防力強化を危険視する、「日本性悪説」も理解できなくもありません。

しかし、彼らの心には「国を守る」「白人の植民地支配からアジアを解放したい」という愛と大義がありました。軍事力は米国に及ばず、多くの犠牲が出ましたが、日本を「侵略国」と断ずることはできません。むしろ、特攻しなければいけないような窮地を生んだ戦略的な失敗を反省し、現在の国防に活かすべきです。

戦後の教育を受けて育った私たちの目には、自虐史観という鱗が何枚もかかっています。その目で先人たちを裁いた「河野談話」「村山談話」は、この国のために命を捧げた方への冒涜以外の何物でもないでしょう。

その目の鱗をはがすのが、当時の先人たちの愛であり、地頭薗さんをはじめとする軍人たちの「記憶」です。戦後70年、こうした方々の言葉をご存命のうちに知り、本などで紹介された英霊の遺書や、各地にある足跡に触れたいものです。

その上で、「河野談話」「村山談話」を見れば、いち早く白紙撤回すべき内容であることが分かるでしょう。