2014年7月号記事

エジプト現地レポート/ロングバージョン

HS政経塾1期生 幸福実現党山形県本部副代表

城取良太

1977年生まれ。東京都出身。2000年、成蹊大学経済学部卒業後、人材コンサルティング業界2社を経て幸福の科学に奉職。10年にHS政経塾に第一期生として入塾。13年に卒塾し、現職。

Webチャンネル「 中東熱風録 」で中東情報を発信中。

混迷するエジプトを救うために日本がすべきこと

※本レポートは、「ザ・リバティ」7月号に掲載したレポートのロングバージョンです。

5月下旬に行われたエジプト大統領選で、前国防相のシシ氏が当選した。シシ氏は、昨年7月に起きた事実上のクーデターを指揮した軍部出身者だ。2011年のエジプト革命で“民主化"を成し遂げたエジプトは、再び軍政に戻るのか。今後のエジプトの課題とは?

HS政経塾第一期生で、エジプト留学経験のある城取良太氏が現地からレポートする。

民主化から3年経ったエジプト・タハリール広場の今

2012年12月のタハリール広場の様子。イスラム色の強い新憲法施行に抗議の声をあげるエジプト国民たち(筆者撮影)。

「僕はアメリカで育ってきたけど、アラブの血が流れている。だから、彼らが自分たちの手で自由を手にしたこの象徴の場所を一度見てみたかったんだ」

エジプト・カイロの中心、タハリール広場で出会ったモロッコ系アメリカ人の男性はこう語ってくれた。彼は大学の休暇を利用して、親戚の家があるエジプトに遊びに来ていて、初めてのタハリール広場に感慨深げだった。

タハリール広場の中心でビデオ撮影をしていると、エジプト人の若者グループが興味津々に近づいてきた。彼らはシンプルな英語で「モルシ、ソーバッド」「シシ、ベリーグッド」と楽しげにカメラに向かって連呼してくれた。

2011年2月に起こったエジプト革命から3年あまり、度重なる抗議デモの舞台となってきたタハリール広場は不思議なほどに平和で、喧噪的なカイロの日常に溶け込んでいたように感じた。

しかし、昨年7月に、シシ前国防相が主導した非民主的な軍事クーデターによってモルシ政権が倒れた直後、ムスリム同胞団を中心としたモルシ政権の支持層と治安部隊が衝突し、多数の死傷者が出て、エジプトは内戦に近い状態に陥った。

「昨年の8月、海外からカイロに戻り、空港からザマレク(カイロの高級住宅地)に戻るまで、軍の検問が5つもあり、その度に全ての荷物をひっくり返されて大変な目にあった」

「8月から数ヶ月間、非常事態宣言により、夜間の外出禁止令が出され、普段は賑やかなカイロの夜も静寂の世界が続いて、気味が悪かった」

現地の話をよくよく聞いてみると、最近、ようやくエジプトに平和な生活が取り戻されつつあるのが分かるが、大統領選挙が近づくにつれて、モルシ支持派による爆弾テロなどが頻発しており、今後の政局次第でエジプトの治安に再び暗雲が立ち込めるかもしれない。

1.再び軍政に戻っていくエジプトの民主化

(1)新しい政権の評判は?

シシ氏は、エジプトを立て直せるか。写真:代表撮影/AP/アフロ

エジプトでは5月26日に大統領選が行われ、シシ前国防相が新しい大統領になった。選挙以前から当選確実といわれていたシシ氏だが、現地で取材をしてみると、シシ候補への評価が思ったほど高くなかったことに少し驚いた。

今年の1月上旬に行われた新憲法制定に関する国民投票では98.1%という驚異的な得票率で賛成を得た軍主導の政権だが、一方で投票率が38.6%と低かったのも事実だ。

また1月の国民投票の頃の熱気も冷めつつあり、「他に有力候補者がいないだけじゃないか」という声も複数から聞いた。

現在のエジプト国民の世論構成を大別すると、(1)ムバラク政権時の既得権益層、(2)反モルシ層(アンチ・ムスリム同胞団)、(3)民主化に期待していた若年層、(4)親モルシ層(ムスリム同胞団)といった4層に大雑把に分けることができる。(1)と(2)がシシ大統領候補の主な支持基盤となるが、特筆すべきは(3)であろう。特にモルシ政権やムスリム同胞団を支持していた訳ではないが、民主的に選ばれたにも関わらず、非民主的な手段で政権を奪われたことへの不合理さや、エジプトにはやはり民主化は根付かないといった自嘲感を、前政権への同情として表す若年層がいるということだ。

(2)なぜ権威主義的な軍政に対する信頼は根強いのか

不正を嫌うイスラム圏全体の傾向といえるが、軍に対する信頼は未だに根強いのも事実だ。実際にエジプト軍の人事は、階層や地縁、血縁などに影響されることは比較的少ないと言われており、縁故主義と腐敗がまかり通る国においては珍しく、「公正さ」を保った集団なのかもしれない。実際にエジプト革命の時には、デモ参加者から「軍と民衆は一つの手」という呼びかけがなされ、エジプト国民からの信頼感を感じさせる。

また、ムバラク政権を懐かしく思う層を一つ挙げるとすると、キリスト教コプト派の人々だろう。コプト派とはキリスト単性論派に属し、世界でも最も古いキリスト教徒の一派と言われ、現在エジプト国民の10%~12%がコプト教徒と言われている。

ムバラク政権時は守られてきたコプト教徒だったが、民主化後はコプト教会への襲撃件数も激増し、イスラム政権に対する嫌悪感が広がっていた。

(3)軍政の復活で懸念されること

だが、軍政が本格的に復活することでやはり懸念されることがある。

それは報道や表現、結社・集会の自由が著しく制限されるということだ。

実際に、現地のメディア関係者によると、今はモルシ政権、その前のムバラク政権時に比べても、メディアへの規制は厳しくなっている。特に外国メディアに風当たりが厳しくなっているそうで、日本の某マスコミも被害にあったばかりだそうである。

また、シシ政権に期待していない理由を聞いてみると「シシには国を守るという思いが強いのは分かるが、エジプトを発展させる具体的なプランやビジョンが全くない」という意見も少なくなかった。モルシ政権を嫌悪していたあるコプト教徒にインタビューした際、こうしたシビアな意見が出てきたことには驚きを隠せなかった。

そしてこう続けた。「エジプトにはクリアなビジョン、プランを持った政党がほとんどなく、ただ単に闘っているだけだ。民主主義もいいが、エジプト国民にも受け皿がなく、欧米のようには機能しない。だから明確で分かりやすいメッセージを持つ自由公正党(ムスリム同胞団が支持母体)のような組織に票が集まったのだろう」

2.モルシ政権とムスリム同胞団

(1)ムスリム同胞団の弾圧の歴史と民主化で勝利を得た原動力

「イスラム、それが解決だ」

極めてシンプルなメッセージでエジプト民主化の波に上手く乗り、政権の座についたイスラム原理主義グループ、ムスリム同胞団。2011年、チュニジアのジャスミン革命に端を発した民主化の波はエジプトにも達し、30年におよぶ軍事独裁のムバラク政権が倒れて、新しく政権をとったモルシ大統領の支持母体だ。

だが、ムスリム同胞団の活動は、時の政権側による長い弾圧の歴史に彩られている。彼らは政権への挑戦者になりうる社会運動として大きな力を得ていたからだ。

1954年のナセル政権下では、ムスリム同胞団の活動は非合法化され、徹底的に壊滅状態に追い込まれた。70年代に入りサダト政権下で、非合法化のまま徐々に組織再建を果たしていった。

その間、ムスリム同胞団は草の根活動で支持者を創り出すことに専心していった。地方部やカイロ郊外の極貧地域など、生活が困難な層に対して、無償の食料や衣類の提供、安価な医療サービスを行う一方で、彼らに文字を教え、厳格なイスラム教育を施し、「イスラムこそ正義である」という価値観を植え付けていった。こうした草の根活動を通して支持者を増やし、民主主義的に勝利できるような力を蓄えていった。

(2)ムスリム同胞団の本性

こうした草の根的なボランティア活動が表面に出るため、日本の一部メディアなどでは「穏健派」という言葉でムスリム同胞団を表現することもあるが、組織の目的や理念は極めて原理主義的であり、戦闘的である。

創設者のアル・ハサン・バンナはイギリスによる植民地支配と、国民の西洋化に強い危惧感を持ち、1928年にムスリム同胞団を設立した。

エジプトの独立と、イスラム法の適用に基づいた宗教国家の樹立を訴え、15年のうちにエジプト国内に3000支部、45万人の活動員を得るまでに急成長を遂げるが、「イスラム回帰」を熱烈に煽り立てるやり方は、当時の支配体制との摩擦を引き起こし、1949年にアル・ハサン・バンナは暗殺される。

そのムスリム同胞団の思想体系をより先鋭化させ、戦闘的に変えていったのが「クトゥブ主義」で知られるサイイド・クトゥブである。

クトゥブはスンニ派四大学派のうち、最も保守的であるハンバル学派の思想(コーランの厳格な解釈から逸脱するものを全て排除するような考え方)をベースに、西欧社会全体を異教徒の地として糾弾し、当時のエジプト社会も無明(ジャヒーリヤ)の時代を生きていると論じた。

こうした「近代化と西洋化」への敵愾心を煽り立てるような極めて単純化された言論活動が、多くの若者を惹きつける結果となった。

クトゥブ自身は1966年、ナセルの暗殺を謀った罪で絞首刑となり、それ以来、戦闘的なイスラム主義の創始者として広く知られるようになった。

(3)数多くの戦闘的なイスラム組織の母体となったムスリム同胞団

彼の死後、彼の思想はイスラムの名のもとに人々を恐怖に陥れた数多くの戦闘的な集団の理論的な基盤になっていった。

そしてその中で、一種の「培養器」のような機能を果たしたのが、ムスリム同胞団だと言える。一般的にまず同胞団に入団し、そこから細胞分裂して、「戦闘的な集団」が自然発生的に誕生していくという形だ。

97年にルクソールで日本人を含む60名以上を殺害した「イスラム集団」や、アルカイダの実質的なリーダーと目されるアイマン・ザワーヒリー(15歳で同胞団に入団)が所属していた「ジハード団」なども、ムスリム同胞団から培養された組織だと言われている。

また、ウサマ・ビン・ラディンの周りは、クトゥブ主義を信奉するエジプト人が固めていたとされており、アルカイダにも大きな影響を与えていたと言える。

更に、ムスリム同胞団のネットワークは中東中に広がっている。

ヨルダン、リビアなどには現に同胞団系の政党が議席を持っており、チュニジアでは政権与党となっている。

シリアの反体制派にも同胞団系組織が入り込んでおり、パレスチナの原理主義組織「ハマス」も、ムスリム同胞団のパレスチナ支部をもとに形成された団体である。

確かにアルカイダに代表される武装テロ組織と、ムスリム同胞団のような原理主義組織は同じものではない。しかしエジプトが、戦闘的なジハード主義発生の地であり、ムスリム同胞団からそうした人材が数多く輩出されたということも事実であろう。

(4)モルシ政権が1年余りで見離された3つの契機

半世紀以上も風雪を耐え抜き、エジプトの政権を担うことになったムスリム同胞団と、同団体が支持する自由公正党・モルシ政権だが、なぜ就任から1年余りで打倒されたのか? まず、エジプト革命初動期において、革命を主導した民主活動家の多くから「ムスリム同胞団が民主化革命を横取りした」と思われていたことがある。

実際に、政変初期にはムスリム同胞団はデモ隊への共感を表明しつつも、今までの同団体への弾圧の歴史から得た教訓からか、ムバラク政権との全面的対立を避けた。

それどころか、ムバラク政権の軍幹部とも密かに取引をしていたことから、それ以外の反ムバラク連合から信用されていなかった。

だが、ムスリム同胞団の極めて強い組織力が革命を前進させるということで、それ以外の反ムバラク連合とやむなく合意に至った経緯がある。

その後は、その組織力を活かして、革命運動の主流に一気にのし上がっていった。

また、政権樹立時において、色気を出して大統領選に候補者を擁立したことが同胞団の運命を決してしまったという皮肉な結果も挙げられる。

当初は「大統領選には候補者を出さない」と言っておきながら、追い風と見るや否や、総力を挙げて大統領選に参戦してきたことに対する嫌悪感、エジプトが一気にイスラム法に基づく宗教国家となることに対する警戒感がエジプト国民の中に広がった。

さらには、何といっても強引な新憲法制定である。多くの人々の自由や権益を損なう憲法内容を強引に制定しようとしたことが、多くの国民の反発を買った。

政権の座に就いたモルシ大統領は、周囲の予想通り、次々と中央政府や地方自治体の重要なポストに人材を送り込み、イスラム原理主義的な規定を導入する体制を整えていった。

2012年8月に憲法宣言を発布し、人民議会の成立までは大統領が立法権を持つことにした。そして11月には新たな憲法宣言を発布し、大統領令は司法に制限されないことを定めた。

新憲法案は12月の国民投票によって、63.8%の賛成票を得て承認されている。

こうしたイスラム色の極めて強い憲法制定に、タハリール広場で多くの民衆が反対の声を上げていたのを筆者も鮮明に記憶しているが、特に「信教の自由」を侵害される恐れのある他の宗教組織などから反対の声が上がった。

前述したキリスト教コプト教徒はもちろんのこと、エジプトの伝統的なイスラムとしての、アズハル学院やスーフィ(イスラム神秘主義)なども、ムスリム同胞団に対する反対を表明していった。

そして、「ムバラク政権の時の既得権層(軍部)との衝突が不可避となり、それがクーデターという形で現れてしまった」といえるだろう。

(5)今後のムスリム同胞団はどうなるのか?

それでは、ムスリム同胞団は今後どうなっていくのか。

ムスリム同胞団はオイルマネーが潤沢な湾岸産油国カタールから、長年金銭的支援を受けてきたが、サウジアラビア、UAEからの反発によって、同胞団への支援やエジプト情勢への干渉を停止するという合意が4月に湾岸諸国内でなされた。こうしたスポンサーからの援助を断たれると組織運営は厳しくなるだろう。

一方、イギリスではムスリム同胞団系への資金凍結について、エジプトからの要求を拒否したとも報じられている。今後は大きなムスリムコミュニティーがあるイギリスを中心に、ヨーロッパが同胞団員の潜伏場所になるかもしれない。

総じていえば、「主要な同胞団員は海外に逃亡しているか、姿をくらませ、他党や大学に多数潜り込んでいる。また、今までの弾圧の歴史に対抗するために培われてきた強い組織力を活かし、巧みに勢力を維持して次のチャンスを伺っている」という声が、現地取材を通じて最も多く聞かれた。

3.エジプトで存在感を薄めつつあるアメリカ

(1)モルシ政権後に軍事支援を打ち切ったアメリカ

また、今回の取材を通して痛感したことは、エジプトからの本格的なアメリカの退潮である。

実際に、モルシ政権が打倒され、軍事暫定政権が樹立されてからは、長年続いてきたアメリカからエジプトへの13億ドル規模の軍事支援が一部凍結された。

オバマ政権は、エジプト革命以来、「対エジプト援助に条件を設けるべきだ」という議会の提案にことごとく抵抗し、モルシ政権時も軍事支援を継続してきた。だが、アメリカの法律では、民主的な選挙で選ばれた政府に対してクーデターを起こした軍への支援を禁じているため、やむなく凍結されているのだ。

現地筋では「アメリカは間もなく軍事支援の凍結を解除するのではないか」という見込みもあり、エジプトとしても、いまさら兵器をロシア製に変えられないという事情もある。

だが、現在、在エジプトアメリカ大使は不在であり、国同士の関係が本格的に冷え込みつつあることを予見させる。

(2)二枚舌で「信」を失うアメリカ

更に深刻なのは、民間レベルでの反米感情が過去最悪であるという点ではないだろうか。

これは、アメリカの二枚舌外交の結果が現れているように思う。

2011年2月の革命時、当初ムバラク政権擁護の姿勢を示していたアメリカは、裏でムスリム同胞団ともコンタクトを取っており、革命の収拾が困難だと判断した途端、ムバラク政権を切り捨てたため、その事に対して、イスラエルとムバラク体制側を失望させた。

モルシ政権誕生後は、アメリカは反欧米色の極めて強いモルシ政権を後押ししていたが、モルシが独裁的になり、ムスリム同胞団が民意に逆らう行動をし始めると、エジプト自体から手を引いていった。

シシ新大統領は、国防相時代にワシントン・ポストの取材に応じ、「(ここ数年間で)アメリカはエジプト国民に背を向けた。私たちはそれを忘れない」と語っている。

イスラム文化では、自由や民主主義よりも、公正や正義、平等という価値観が重要視される。彼らはとりわけ不正(ズルム)を憎むと言われる。

国益とイデオロギーの狭間で揺れ動くアメリカ外交の一貫性の無さが、エジプト国民から見ると正義、公正の欠如と映っていることは想像に難くない。

かつては中東随一と言われた親米国であったエジプトだが、アメリカの中東外交の迷走ぶりをこの二国関係が示しているように思う。

こうした反米感情によって肩身が狭い思いをしているのは、エジプト在住のアメリカ人だろう。

サウジアラビアで生まれ、カイロに住んで6年、中東在住歴20年以上のアメリカ人にインタビューを行ったが、「とにかく今はアメリカ人にとって(エジプトが)最悪の時だ。アメリカ出身と言わずに、カリフォルニア出身だと言っているよ」と冗談めかして語ってくれた。

実際に、カイロ・アメリカン大学では軍事クーデター以降、留学生(特に欧米系)が激減しており、カイロ市内で学んでいるアメリカ人の多くがヨルダン等、比較的政情の安定した近隣諸国に逃避したという。

そして彼はこうも語ってくれた。

「確かに今、エジプトではロシアや中国などの進出が目立つが、エジプト人が本当に好きな国はドイツと日本だ。特に日本には、エジプト国民が本当の意味で求めているものを解決する潜在的な力があると思う。今のエジプトで、日本はベストな立ち位置にいるんじゃないかな」

4.エジプト混迷の原因は経済問題

(1)貧困こそがエジプト混迷の真因

エジプト混迷の真因は、ズバリ経済問題である。エジプト国民の大半が本当に求めているもの、それは「豊かさ」だ。

エジプトは、国家の歳入をスエズ運河の通航料、観光業や出稼ぎ労働者からの送金などに依存している。革命前まではGDP成長率は5%半ばで、輸出や投資は前年比で2桁の成長を遂げていたが、エジプト革命後は、対内直接投資と外国人観光客の激減によって大打撃を受けた。

為替レートは下がり、失業率は高止まり、財政赤字は悪化を続けるなど、モルシ政権は多くの問題に直面しながらも、打つ手はなく、評価を下げたと言える。

それ以前に、国民の21%が1日2ドル以下という国際貧困線以下の生活を強いられているという厳然たる貧困の問題がエジプトには存在している。

(2)脆弱な社会インフラが国民の怒りを膨らませる

また、社会インフラも非常に脆弱で、慢性的に渋滞を引き起こす交通インフラ、機能しないゴミ収集システム、質の悪い上下水道システム、気温が上がると毎日のように停電を引き起こす貧弱なエネルギー事情など、革命後のモルシ政権への国民の期待はそうした生活に密着した問題ばかりに集中していた。

エジプト国民のフラストレーションや怒りのエネルギーは、こうした日常生活のイライラによって少しずつ蓄積されていく。

2011年のエジプト革命は、ウクライナ産小麦の凶作でパンの価格が急騰したことへの不満が着火点になったとも言われている。

5.エジプト経済を救う存在こそ、真のエジプトのリーダーとなる

こうした点をかんがみれば、エジプトで国民から受け入れられる真のリーダーとなるには、国民が切望する豊かさの実現を成し遂げることだ。そのために、企業家を多数輩出できるような自由な経済的土壌を創り出し、資本主義的な発展を成し遂げることが必要だ。

(1)軍政による統制的な経済システムでは企業家は育たない

ムバラク政権と同じく、軍の影響力が強いシシ政権になると、製造企業や建設企業など軍が多くの企業群を所有し、軍の利権確保から民間企業を締め出していく統制的な経済がしばらく続くことになろう。

すると、自由なアイディアと創造性を持った企業家たちは力を発揮できなくなる。企業を志す優秀な人材は、海外に活躍の場を求めて国外に流出してしまうだろう。

(2)イスラム主義には経済の思想はない

一方で、ムスリム同胞団(自由公正党)に代表されるイスラム原理主義政党にも、現代的な資本主義的発展を成し遂げる思想的バックボーンは基本的に存在しない。

コーランの字義通りの解釈によって、イスラム国家を創設することが最優先となるため、その理念に反するような発想や創造性は排除されることになるだろう。

また、国民の約40%が貧困層であるエジプトで、「慈善」というイスラム的徳目を実践したことによって、民主主義的勝利を得たというイスラム的ポピュリズムの図式は今後も変わらない。企業家を育てるという発想ではなく、バラマキ型の政治になってしまうだろう。

(3)エジプト社会をイノベーションできる旗手を!

軍政にも、イスラム主義にも、エジプト経済を根底からイノベーションさせ、エジプト国民に豊かさと幸福を提供できるような哲学は存在しない。

もちろん、軍の利権を犯せば、軍が黙っていないだろう。また、反イスラム的な改革は、暗殺の危険性すらあり、誰がやってもエジプトの体制を根底から変えるのは至難の業であるかもしれない。

しかし、今こそエジプト国民の幸福実現のために、勇気をもって改革を断行することができるリーダーの輩出が求められる。

6.日本がエジプトを救え!

(1)親日感情を武器に、活かされる日本の「技術力」「教育力」

その点、エジプトの未来の発展のために、日本が果たすべき役割は大きいといえる。

前述した中東在住のアメリカ人の指摘通り、エジプト国民から「とても好かれている」ということが日本の一番の強みだ。これは、私自身がエジプトのカイロに留学し、現地で半年間暮らした実感でもある。

歴史的に見ても、日露戦争でロシアのバルチック艦隊を破ったことや、第2次世界大戦でアメリカと4年間戦い続けたことは今でも称賛される。そして戦後築き上げた奇跡的な経済復興を成し遂げた「日本人」の勤勉さと、その技術力の象徴である「日本車」の性能が絶賛される。

この親日感情を武器に、社会インフラのイノベーション、教育のイノベーションに日本の技術と経験、ノウハウが活かされるはずだ。

「エネルギー資源がない中で、素晴らしい技術力を手にした日本に、エジプトも学ばなくてはならない」と留学時代に出会ったエジプト人大学生は言っていたが、世界一の技術力を持つ日本の原子力発電所をはじめ、電力システムに関するノウハウは停電の多いエジプト人家庭の救世主となるはずだ。

また、日本の進んだ鉄道インフラやゴミ収集システム、上下水システムなど、社会インフラの整備で日本の活躍の余地は無限にあるだろう。

さらに、教育システムのイノベーションがエジプトの帰趨を決するだろう。すでにエジプト・アレキサンドリアにあるエジプト日本科学技術大学(E-JUST)は少人数型の実践教育で非常に高い評判を得ているが、湾岸産油国で評判の高い、規律正しさや道徳心の涵養などを中心にした日本型の初等教育は大きなニーズがあるといえる。

ムスリム同胞団などのイスラム組織が無償で提供している極端なイスラム教育により、結果的に戦闘的な原理主義者やテロリストが誕生していることを考えれば、エジプトの民主的プロセスを上手く機能させるためにも初等教育の徹底は非常に大事である。

(2)日本の国益のためにもエジプトとの関係を強化せよ

また、エジプトとの関係強化は、日本の国益のためにも非常に大きな意味がある。

エジプトはこれから爆発的に経済発展すると見込まれているアフリカ大陸と中東の中継地点になる要所だ。中東・アフリカ共に若年層の人口急増は止まらず、潜在的な市場規模は日本経済にとっても大きな魅力と言える。

さらに、アメリカの退潮と同時に、中国の世界的な覇権戦略の影響が中東・アフリカにも色濃く影を落としている今、日本の中東外交の核としてエジプトは外せない。

エジプトも次第に中国の影響が強くなってきていると言えるが、前述した通り、エジプトが将来的に自立できる形での支援を進め、エジプトにおける親日感情をさらに高めていくことができれば、中国の世界覇権戦略を食い止める大きな布石となるだろう。

(3)エジプト国民の幸福を見据え、腰の入った外交が重要

今の日本政府はアメリカなどの影響もあって、その国の人権状況を加味しすぎる傾向が強い。そのため、エジプト政権からはヤキモキされており、微妙な関係にあるというのが、政府筋の見方である。

しかし、信頼関係を築くには長い時間が必要とされるアラブの特性を加味すれば、変動する政権の特色に関わらず、エジプト国民8300万人のより良い暮らしと豊かさを長期的に見据えた経済外交を行うことが大切だろう。エジプトに日本の技術力とノウハウを提供すれば、彼らの不動の「信」を勝ち得、エジプトに対する影響力も一段と強めることができるはずだ。

今、日本に必要なのは、アメリカ追随ではない。独自の外交戦略だ。

エジプトに好かれているという最良の立ち位置を活かし、日本とエジプト双方の明るい未来のため、腰の入った関係構築が求められる。

最近のエジプトの主な出来事

2011年1月

エジプト革命。民衆デモにより、30年以上続いたムバラク政権が崩壊。

2012年5月

史上初の自由選挙による大統領選でモルシ政権が誕生。

2012年12月

新憲法施行。イスラム色の極めて強い憲法内容に国民は強い懸念を表す。

2013年7月

軍による事実上のクーデターによって、モルシ政権が倒れる。

2014年5月

大統領選で、軍出身のシシ前国防相と民主革命派のサバヒ氏が対決。