2014年3月号記事

【第8回】

シリーズ 富、無限

忍耐を成功に変えた人々

富や成功を手にした人々の人生には、必ず苦難・困難に耐えた時期がある。自分ではどうにもできない環境や時代の変化、スランプや周囲の批判……。

絶望的な状況を乗り越えた末に成功を収めた人々の壮絶な人生をたどった。

(編集部 河本晴恵)

パート1

次々に降りかかる試練に耐える

経済的な苦難に負けず学問を修めた

本多静六

日本初の林学博士

埼玉県菖蒲町(現・久喜市)の静六の生家。実家は元々、地元の名主を務める裕福な農家だった。

東京の日比谷公園や明治神宮の林苑をはじめ、全国各地で数百の公園の設計・改良に携わった日本初の林学博士である本多静六(1866~1952年)。

生涯で376冊の著書を著し、東大教授でありながら、収入の4分の1を貯めて、山林や鉄道に投資。50歳になるころには年収が28万円(現在の約10億円)。さらに、銀行や会社など30社の株や、田畑や山林、別荘地を多数持つ大富豪となった。

しかし、 そうした富を築くまでには、極度の経済的な試練に耐え、壮絶な努力を続けた忍耐の時期があった。

父の急死、苦学。落第して井戸に身投げ

静六が9歳の時、父親が急死。多額の借金を残された一家は極貧生活を余儀なくされる。次兄が埼玉の実家から東京の商店に小僧に出され、静六は家族とともに農業に従事する。14歳の時、一年のうち半年は、東京で住み込みの書生として勉強に励み、残り半年は帰省して農業を手伝う生活を始める。実家に帰っても睡眠時間を削りながら、米つきのかたわら儒学書『四書五経』などの暗記に取り組んだ。

18歳の時、東京にできたばかりの山林学校(後の東京大学農学部)に進学するが、独学を続けてきた静六は幾何代数学の授業のスピードについていけず、一学期の試験で落第してしまう。

今までの努力も、母や兄がなけなしの金をはたいて工面してくれた学費も「水泡に帰した」と悲しみがこみ上げ、死んで詫びようと遺書を書いて近くの古井戸に身を投げた。 ところが井桁に手が引っかかり、その時、ふと祖父の言葉が脳裏をよぎる。

「塙保己一(注)は盲目でありながら、六百三十巻余りの『群書類従』その他を著したのだ。目の二つあるお前が保己一以上の勉強を続けたならば、もっと大きな仕事ができるはずじゃ」

自分よりも厳しい条件の中で努力した人がいる──。自分にはまだ努力の余地が残されていることに気づき、すぐさま井戸からはい上がった。

その後、それまで以上に猛勉強した結果、「幾何の天才」と呼ばれるほどになり、落第で失った半期の遅れを取り戻して首席で卒業。成績優秀者に贈られる銀時計の賞賜を受けた。

埼玉県久喜市に建つ「本多静六博士生誕地記念園」の像。

留学中に勉強が進まず己の情けなさに切腹を決意

卒業とともに静六は、林学を学ぶためドイツ留学へと旅立つ。しかし7カ月後、義父が4年間の学費を蓄えていた銀行が破産し、突然、送金が途絶える。

しかし、静六はあきらめなかった。すぐに安い屋根裏部屋に移り、醤油を水で薄めて使うなどして生活費を切り詰め、博士号取得まで通常4年かかる課程を2年で終えようと決意する。朝6時から夜7時まで講義を聴き続け、帰って宿題をこなし、睡眠は3~4時間だった。

猛勉強のかいあって、博士号取得の試験で論文は合格したが、最大の難関の口述試験が待っていた。担当教授が講義の種本としているドイツ語の書籍はあまりに難しく、勉強が進まない。 思いつめた静六は己の情けなさに、ついに短刀を取り出し、切腹を試みる。しかし、寸前のところで「もう一度死力を尽くしてやってみよう、切腹はいつでもできる」と踏みとどまり、再び勉強に挑む。 そんなことを一週間ほど繰り返していると、いつの間にか精神が統一され、内容が驚くほど頭に入るようになった。見事に口述試験を突破し、奇跡的に2年で博士号を取得。静六は帰国後、東大助教授や東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師を務め、1899年には日本初の林学博士となった。

静六は、 「困苦欠乏を踏み越えていく努力こそ、人生にとっては実に尊いものであると言わねばならない」 という言葉を残している。経済的な困難を言い訳にするのでなく、さらなる努力を積み重ねるきっかけとした精神態度が、成功の元手になった。

静六は莫大な資産を築いた後も質素な生活を続け、自治体などへの寄付を惜しまなかった。1954年から続く埼玉県の「本多静六博士奨学金」は、静六が県に山林を寄付する際の条件として始まったもので、これまでに1900人以上の学生が利用。苦学を乗り越えた静六は、今でも多くの若者を励まし続けている。

(注)江戸時代の国学者。門下には平田篤胤や頼山陽がいる。