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現代の日本では、「格差」や「貧困」が叫ばれ、国民や政府からも「富の再分配」が当然のように語られるようになった。

発刊中の本誌10月号「『生涯現役』の体現者 本多静六に学ぶ ─良書を読み、『人生計画』を立てよう─」では、政府に頼らず、自助努力で生き抜いた姿を紹介した。

本多静六は1866年、現在の埼玉県久喜市に生まれ、経済的困窮と格闘しつつ、苦学して東京帝国大学の教授となり、一流の学者として数々の業績を残した。収入の四分の一を天引きして貯蓄を続け、40歳ごろには貯金の利息が教授の年俸を上回り、当時としては極めて貴重な海外渡航ができるようになった。

その生き方は、「勤勉の精神」そのものであり、「自らを助く」ことで得られる本当の幸せの素晴らしさを教えてくれる。今回本欄では、静六の「努力即幸福」の人生について追ってみたい。

米つきをしながら漢文を暗唱し、一足の靴下を4年間使い通した

静六は「人は一生のうちに一度貧乏の味を具に嘗(な)めておくと、金や物の有難味も、人情もわかって、大いに後々のためになる」と述べている。

「貧乏だから不幸になる」という"常識"に抗い、親譲りの貧乏が「克己努力を積ませ、よき体験を与え、堅実な人生を作り、老後には幸福の生活を営むこと」につながると語っているのだ(『本多静六自伝 体験八十五年』)。

そうした考え方を形づくった青春期の体験は、どのようなものだったのか。

満9歳で父と死に別れた静六少年は、残った借金の返済が終わった13歳ごろに「農閑期のみ」という条件で東京での勉学が許されると、兄の恩師・島村泰の元で書生をする。四谷の邸宅では雑用から来客の取次ぎまでをこなし、粗衣粗食の中で島村から漢文を学んだ。

郷里に戻ると、静六は米つきをしながら、覚えた漢文を暗唱し続けた。仕事の後は小学校に通い漢籍の講釈を聞いたが、他の少年が中学生に通うぐらいの年ごろに、4年ほど働きながら苦学を続けたという。

そうした中で磨いた漢文が最高点を取り、静六は東京山林学校(現在の東大農学部)に50人中50番で何とか合格する。

しかし、入学後の生活は厳しかった。

郷里の実家が身を削ぐような思いで工面した東京山林学校の学資は、月謝と寄宿舎費を前納すると、小遣いは一円も残らない。静六は日曜日に欠食届を出し、島村邸で働いて三食を食べさせてもらうと、欠食分のお金を払い戻してもらい、何とかやりくりした。

静六は丈夫な兵隊靴を買って3年間履き通し、一足の靴下を4年間使い通した。靴下を履くのは島村邸で働く時と他の館に伺う時だけで、移動中には靴下をポケットの中に入れていたのだ。寄宿舎に捨てられていた短い鉛筆を拾って筆の軸にはめて使い、半紙の裏表をノートにして細かい字で埋め尽くすなど、涙ぐましい節約をしながら学業に精進する。

ドイツで教わった経済的基盤の確立の重要性

そうした苦心が実り、学業で優秀な成績を収められるようになった。そして、20歳ごろに本多家への婿入りの縁談が持ち上がる。

だが、静六は、修行中の身での結婚は早すぎると考え、それを断るためにあえて無理難題を出した。「卒業後、ドイツに4年留学させてくれたなら……」。すると、本多家は「それぐらい大望のある婿がほしい」と応じ、思いもかけぬ形で留学が実現する。

静六は山林学校を卒業後、めでたくドイツ留学を果たすが、苦難は続く。資産を預けていた銀行家が破産したため本多家は資産を失い、4年の予定を2年に短縮せざるを得なくなる。

留学中、漬物と米で三食をしのぐ生活に戻し、遊興を絶って3~4時間の睡眠で勉学に励んだ。その結果、静六は辛くも難関を突破し、博士号を取得する。

その時の指導教授であったブレンターノ教授から、経済的基盤の確立の重要性を教わる。

「今後、いままでのような貧乏生活をつづけていては仕方がない。いかに学者でもまず優に独立生活ができるだけの財産をこしらえなければ駄目だ。そうしなければ常に金のために自由を制せられ、心にもない屈従を強いられることになる。学者の権威もあったものではない。帰朝したらその辺のことからぜひしっかり努力してかかることだよ」(『私の財産告白』)

子供たちに泣かれても、「四分の一天引き法」を貫いた

静六は日本に戻ると、その教えを実践するために「四分の一天引き法」を始める。