台湾独立運動家・張燦鍙氏インタビュー
張燦鍙
プロフィール
(George Chang、ヂャン・ツァンフー)1936年生まれ。台湾の政治家、独立活動家。李登輝民主協会理事長。台湾国立大学卒業後、米ライス大学にて化学工学博士。1973年、台湾独立建国連盟総本部の議長に選出。台湾に帰国後、1997年~2001年に台南市長。
インタビュアー:藤井幹久 宗教法人・幸福の科学 国際政治局長
2020年に行われる東京オリンピックには、台湾の選手団も参加する。しかし台湾代表は、国際オリンピック委員会(IOC)の協議により、長らく「チャイニーズ・タイペイ(中華台北)」の名称でのオリンピック参加を強いられている。
この名称には、「中国と台湾はひとつの国である」という「一つの中国」を主張する中国政府の影響がある。東京五輪組織委員会もIOCのスタンスにならい、HPなどで台湾を「チャイニーズ・タイペイ」と表記している。
だが、この名称を用いることは、台湾が中国の一部だと認めることになり、日本にとって安全保障上の危機を招きかねない。
これに対して、昨年11月、台湾で、東京オリンピックに「台湾」の名称で参加申請を目指すことの賛否を問う国民投票が行われた。IOCからはオリンピックの出場権を失う恐れがあるとの"警告"を受けながらも投票は実施され、台湾人たちの意思を示した。
この国民投票を実現させたのは、長年、アメリカで「台湾独立建国連盟」の指導者として活動してきた張燦鍙(George Chang)氏だ。
さまざまな形で台湾の独立を訴えてきた張氏に、インタビューを行った。
◆ ◆ ◆
──2020年東京オリンピックに「台湾」の名称で参加するための活動に取り組まれてきました。
張燦鍙氏(以下、張): 台湾には、領土があり、国民があり、そして主権(政府)があります。あらゆる観点からみて、すでに台湾は独立国家なのです。
最近のオリンピックでは、チャイニーズ・タイペイ(中華台北)の名称で参加していますが、この名称は、私たちの国の名前ではありません。そもそも、私は台南市の出身で、台北市民ではありませんから、バカバカしい話です。
私たちは、かつて「台湾」の名称で参加していた時期もありました。1956年メルボルン・オリンピックから、1972年ミュンヘン・オリンピックまでです。実は、1964年の東京オリンピックでも、「台湾」として出場しています。
しかし、中華人民共和国が国連に加盟する前後から、問題が生じました。1970年に中華人民共和国と国交を持ったカナダ政府は、「中華民国(台湾)としてオリンピック代表を受け入れることはできない」としました。国の名前は、私たちの誇りです。国の名前を変えることを受け入れることはできないので、1976年のモントリオール・オリンピックには、参加を辞退しました。
──「台湾」の名称でオリンピックに参加するための国民投票の実現にも取り組んできました。
張: 2020年東京オリンピックに「台湾」として出場するために、様々な団体に声をかけた結果、4千名以上の発起人と52万筆の署名を集めることができました。
そして、2018年11月の統一地方選挙と同時に、賛否を問うための国民投票を実現することができました(国民投票の10項目のひとつとして、「東京オリンピック・パラリンピックに、『台湾』名義での参加申請を、台湾政府からオリンピック委員会に行う」ことが投票された)。
結果は、残念ながら否決となりました。しかし、台湾人のサイレント・マジョリティー(声なき人々)のためにも、訴え続けなければならない。そのように考えて、現在も活動を続けています。
アメリカでの台湾独立運動
──長年、アメリカでの台湾独立運動のリーダーでした。
張: アメリカに留学して博士課程を終えたあと、ニューヨークで化学を教えていました。しかし、当時の台湾では、戒厳令のために言論の自由がありませんでした。祖国の仲間が言えないことを、私は言わなくてはいけない。それは、私の義務だと思いました。
そこで教師を辞めて、アメリカでの台湾独立運動のために身を捧げる決意をしたのです。在米台湾人を組織して、1973年には、台湾独立建国連盟の議長に選出されました。
1975年には、ニューヨーク・タイムズ紙に、私の論説記事の寄稿「台湾の未来」が掲載されたことがあります。1987年10月には、アメリカ国務省からの招待により、「台湾・旧い神話と新しい現実」と題してスピーチを行いました。アメリカは中華人民共和国と、正式に国交を持ちましたが、「台湾を無視してはいけない」と伝えました。米国議会の議員たちにも、台湾独立運動への支援を働きかけました。
──在米30年を経て、台湾への帰国が実現しました。
張: 国民党政権による戒厳令下では、台湾独立運動は非合法活動でした。私は、国家転覆を謀る政治犯として、当局から重要指名手配犯となっていました。このため、台湾に帰国することはできませんでした。
その後、台湾の治安に関する法律が変わって、釈放される仲間もいましたが、私はブラックリストに載ったままでした。私が、台湾に帰国したのは1991年12月でした。渡米してから、すでに30年の月日が経っていました。
帰国によって終身刑となるおそれもありましたが、私は全く心配していませんでした。大学院時代からの友人である李登輝が、当時の総統だったからです。李登輝は国民党主席でしたが、民主化に理解があることは知っていました。
台湾に戻ってから、一時、拘束されましたが、結局は無罪となりました。李登輝からは、台湾の力になって欲しいと頼まれました。もちろん、断るはずもありませんでした。
李登輝の無血革命
──李登輝は台湾の民主化をなしとげました。
張: 李登輝は12年の総統の任期で、自由で開かれた社会に変革しました。それも、流血の事態を招くことなく、サイレント・レボリューションが実現したのです。この李登輝の業績を、私は尊敬しています。
他国の歴史を見れば、たとえ武力の行使があったとしても、民主化には長い時間がかかるものです。李登輝が成し遂げた台湾の民主化は、世界においても誇るべきことです。(了)
【関連記事】
2017年8月15日付本欄 2020年東京オリンピックに、「台湾」の名称で参加を 「時代力量」立法議員 徐永明氏インタビュー
https://the-liberty.com/article/13381/
2017年10月6日付本欄 台湾民主化の父・李登輝元総統が幸福実現党にメッセージ 「指導者に必要な神への信仰」
https://the-liberty.com/article/13605/
2017年10月8日付本欄 台湾民主化の父・李登輝元総統が混迷する日本へのメッセージ 「日本人は自分の国を自分で守れ」