4月17日から8度目のエベレスト登頂に挑戦していた、登山家の栗城史多(くりき・のぶかず)さんが21日、下山途中で亡くなっていたことが分かり、関係者から惜しむ声が上がっています。

栗城さんの所属事務所は、公式Facebookページで「エベレストで下山途中の栗城が遺体となり発見されました。下山を始めた栗城が無線連絡に全く反応しなくなり、暗い中で下から見て栗城のヘッドランプも見当たらないことからキャンプ2近くの撮影隊が栗城のルートを登って捜索し、先ほど低体温で息絶えた栗城を発見いたしました」と発表しました。

栗城さんの突然のご逝去にご冥福をお祈りいたします。本欄では、生前の同氏へのインタビューを紹介します(本誌2011年5月号記事「リアルタイムな"冒険の共有"で多くの人を勇気づけたい」)。

栗城史多 Nobukazu Kuriki

1982年、北海道生まれ。2004年6月、北米大陸最高峰の「マッキンリー」(6194m)を皮切りに、6大陸最高峰を単独登頂。07年からはヒマラヤ8000m峰を目指すようになり、インターネットによる動画配信も開始。これまでに「チョ・オユー」(8201m)、「マナスル」(8163m)、「ダウラギリ」(8167m)の単独・無酸素登頂を果たす。10年9月の「エベレスト」(8848m)では、7750m地点で登頂を断念した。著書に『一歩を越える勇気』(サンマーク出版)、『NO LIMIT』(サンクチュアリ出版)がある。「栗城史多オフィシャルサイト」 http://kurikiyama.jp

栗城さんの登山理由

――栗城さんが登山を始めたきっかけは失恋だったとか。

もともと山には全く興味がありませんでした。

高校卒業後、東京で1年ほどフリーター生活をしていましたが、高校時代から付き合っていた彼女がいる北海道に戻り、札幌の大学に進学したんです。

でも、それから間もなく「2年間付き合ってきたけど、あまり好きじゃなかった」と彼女に振られてしまって。僕はショックのあまり家に引きこもり、ずっと寝ていたんですが、1週間がたったころ、背中がかゆくてシーツをよけると、布団に人型にカビが生えていた。

「このままじゃいけない」と思っていたある日、友人の大学で「山岳部員募集」の張り紙を目にしました。そのとき、彼女が冬山に登ったりと、かなり本格的な登山をしていたことを思い出したんです。「小柄な女性が、なぜそんな危険なことをしていたのか」――その答えが知りたくて、僕は山岳部に入部しました。

頭で決めつけていた限界

――山岳部はいかがでしたか。

つらいことばかりで、ずっと辞めたいと思っていましたが、あるとき札幌から小樽まで冬山の縦走(*)をすることになったんです。遭難しかけながらも、主将と二人きりでしたから、ついていくしかありません。そして1週間後、小樽の日本海が見えたとき、思わず泣いている自分がいた。何かを成し遂げて泣いたのは初めてでした。

それまでの僕は目標を持っても、「たぶん自分はできないだろう」と思いがちで、冬山縦走も無理だと思っていました。でも生きて帰るには、できるとかできないとか言ってる場合じゃなくて、必死になるしかなかった。この経験を通して、「できない」という限界は自分の頭が勝手に決めつけていることであって、「意外と人間ってもっと頑張れるんじゃないか」と思うようになったんです。

それからですね、「山ってすごいな」と思い始めたのは。

(*)尾根から尾根へと山を歩き、いくつかの山頂を踏破する登り方。

すべてをありのまま受け入れる

――2007年からはヒマラヤの8千メートル級の山々への単独・無酸素登頂に挑戦されています。酸素ボンベを使わないのはなぜですか。

単独・無酸素でエベレストに登頂した日本人はまだいないんですね。

標高7500メートルから先は酸素濃度が地上の3分の1になるので、「10回深呼吸して、ようやく1歩」みたいな感じで、本当に苦しい。でも人間は苦しいからこそ成長すると思うし、そのぶん、登頂したときの喜びも大きいんです。シンプルな方法で、本来の自然を感じていたいという気持ちもあります。

僕は単独・無酸素で8000メートル峰を登るので、超人的な体力があるのではないかと思われがちですが、肺活量も筋肉量も成人男子の平均以下です。

ああいう極限の世界では、汚い水を飲めるか、狭いテントのなかで何日間も暮らせるか。そんな"精神的体力"とでも言うべきものが必要になってきます。それは、苦しみも不安も、すべてをありのままに受け入れる力でもあるんです。

"冒険の共有"という使命

――ヒマラヤ初遠征の「チョ・オユー」登頂のときから、インターネットを通じての動画配信も始めていますね。

カメラと通信機材を担いで登り、自分で撮影した映像をネットで中継しています。

これはもともと「ニートのアルピニスト、はじめてのヒマラヤ」というテレビの企画でした。そういうタイトルだったので、ニートや引きこもりの人からメッセージがきたんですが、その内容はいいものばかりではなく、「登れないと思う」とか、「死んじゃえ」とかで。

初回のアタックは天気が悪くなり、山頂まであとわずかのところで引き返しました。そしたら「やっぱりダメだった」というメッセージが届いた。

でも、3日後、ベースキャンプから再度挑戦して、今度は登頂できたんです。そしたら「ありがとう」って書き込んであった。「あんなお兄ちゃんだって頑張っているんだから、自分も何かやってみよう」と思ってくれたのかもしれません。

以来、リアルタイムな"冒険の共有"こそ僕の使命だと考え、動画配信を続けています。ただ、これには年間で1億数千万円の資金が必要です。僕は日本に帰国すると、スポンサー探しに奔走し、全国各地の講演会で夢を語り、応援してくださる方の輪を広げています。人との出会いも僕の大きな財産です。

今年もエベレストに挑戦

――これまでエベレストには2回挑戦されていますが、残念ながら途中下山となりました。

山ではいつも執着との戦いです。頂上しか見えなくなると、戻れないと分かっていても、どうしても登りたくなってしまう。でも、それはただの人間のエゴだと思うし、やはり最後は「登るんじゃなくて、登らせてもらうものだ」と僕はだんだん思い始めたんです。

山は自分の力だけで登ることはできません。ふと、天気がよくなったり、雪の状態がよかったりして、登らせてもらえる瞬間がある。登頂できるかできないかは、山の神様にお任せするぐらいでちょうどいいんです。

今年も4月と9月の2回、エベレストにアタックする予定です。標高8000メートルに広がる光景と感動を、皆さんと共有できたらと思っています。

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