筆者は3月2日から12日にかけて、幸福の科学学生局の仲間と共にインドを訪れた。仏跡巡りや現地の大学生との交流、街頭伝道などを通じ、さまざまな学びや感動を得ることができた。複数回に渡って、その内容をお届けする。今回は第4回目。

前回の内容は( http://the-liberty.com/article.php?item_id=9552 )を参照。

前回はインドの「宗教事情」について述べたが、インドと言えば世界三大宗教の一つである「仏教」の本場。その中でも「ブッダガヤ」は釈迦が悟りを開いた「成道の地」として知られ、ルンビニ(誕生の地)、サールナート(初転法輪の地)、クシナガラ(入滅の地)と並び仏教の四大聖地の一つとされる。海外からの参

拝客や観光客もひと際多い場所だ。

今回は、ブッダガヤにある仏跡群を巡る中で見聞きし、感じたことを中心にレポートする。

苦行で悟りは得られない

初めに、釈迦が悟りを開く前に修行した「前正覚山(ぜんしょうかくさん)」へ。山中のある洞窟内に、あばら骨が出て、血管が浮き出ている、非常に苦しそうな、やせこけた釈尊の像が置かれているのが非常に印象的だ。それに、他の寺院に比べて献花やお供えが格段に多い。悟りを得ようと苦しむ釈尊を思いやる気持ちとともに、苦行からの脱却を成し遂げた釈尊への敬意が込められているのだろう。釈尊が、苦行では悟りは得られないという「悟りの第一歩」を踏み出したというのは、仏教の教えの中では不変の真理だ。

ところが、現代の仏教の多くはその“出発点"にさえ立っていないことがある。例えば、天台宗の有名な「千日回峰行」では「歩くこと」が修行とされ、断食・断水・不眠も含めてひたすら歩き続ける。これは荒行中の荒行とされ非常に尊い修行というが、修行方法として果たして正しいのかと疑問符がつく。「滝行」や「只管打坐」なども、修行の中身より外見にこだわっており、事実上の苦行と言える。釈尊の真意は「苦しさと快楽の両極端からは悟りは得られない」というものであったにもかかわらずだ。

菩提樹の下で

次は、「マハボディ寺院」。ここは、釈尊が悟りを開いた「菩提樹」があり、世界遺産にも登録され、参拝客が最も多い場所の一つ。袈裟衣を着た修行者や敬虔な在家信者が多く、あちこちで「五体投地(ごたいとうち、両手・両膝・額を地面に投げ伏して行う最も丁寧な礼拝方法)」をする姿が見られる。この菩提樹の下で、釈尊は悪魔と闘い、折伏した(降魔成道)。また、物事を原因・結果の法則で捉える「縁起の理法」を悟った。

現代の日本の仏教学において「釈尊は『無我』を説いたのだから霊魂などない。死んだら何もかも終わりなのだ」と言われることがあるが、それは間違いだ。そもそも霊魂がなければ「悪魔との対話」や「縁起の理法」など成り立たないし、葬儀なども単なる形式的なものになってしまう。たとえ貧しくてもマハボディ寺院で熱心に祈る人々と、釈尊の教えを曲解する仏教学者たちとの「信仰心」のギャップは歴然だった。

精舎の意味

その後、釈尊が説法をした「霊鷲山」、続いて「竹林精舎」を見学。「竹林精舎」は周囲を数キロの塀で囲まれていて、中に長方形の形をしたプールのような沐浴処があった。

幸福の科学・大川隆法総裁によれば、「精舎は生活の場と、研修や説法の場と、学校とを兼ねている」「沐浴することには、『体の垢を取り除く』という意味と同時に、『霊的に清めをする』という意味がある」(『本尊と教祖と精舎』大川隆法著、所収。幸福の科学の支部・精舎で頒布)という。

教団がより多くの人々を救済しようとすると、当然、教団にはそれだけ多くの布施が集まり、建物が建ち大規模になる。この竹林精舎や祇園精舎は、修行の場や伝道の拠点として仏法流布のために重要な役割を果たした。今の日本では、ある教団の規模が大きくなると「だまし」や「金儲け」と揶揄する向きがあるが、ここでも常識の違いがあると言わざるを得ない。

ナーランダ大学に見る「宗教と経営」

最後に、「ナーランダ大学」の跡地へ。そこは今から千数百年前、一万人の出家者が生活していた場所だ。ガイドの方によると、何度もイスラム教徒の襲撃に遭い、建て直されてきたようだ。そのためか、警備は比較的厳重だ。また、しきりに「コメグラ(米倉)」と言っていた。ナーランダ大学は、宗教における経営やマネジメントを考える上で引き合いに出されることがあるが、前述の大川総裁は次のように述べている。

「インドのナーランダ学院には一万人も学生(出家僧侶)がいたので、一万人が食べていくためには、通常、托鉢だけでは無理です。(中略)そこで、豊作のときなどに、お布施として多めに穀物を頂き、それを貯蔵庫に蓄え、穀物が足りないときには、それを貸し付けたりしました。(中略)托鉢だけでなくても食べていけるような智慧は身につけていたようです」(『大悟の法』大川隆法著〔幸福の科学出版刊〕所収)

筆者は仏跡を巡る中で、釈尊の本意とは何だったのかを考えていた。仏教の本場を訪れて分かったことは、日本の宗教に対する常識が、インドのものとは全く違うということだった。宗教を小馬鹿にし、また教えを曲解して述べ伝えさえする今の日本の状況に対して、釈尊なら何とお説きになるかは想像に難くない。

(幸福の科学学生局 原田翼)

【関連書籍】

幸福の科学出版 『釈迦の本心』 大川隆法著

https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=151

幸福の科学出版 『大悟の法』 大川隆法著

https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=142

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