筆者は3月2日から12日にかけて、幸福の科学学生局の仲間と共にインドを訪れた。仏跡巡りや現地の大学生との交流、街頭伝道などを通じ、さまざまな学びや感動を得ることができた。複数回に渡って、その内容をお届けする。今回は第3回目。
前回の内容は( http://the-liberty.com/article.php?item_id=9470 )を参照。
世界では今も、ユダヤ・キリスト教とイスラム教の対立のように、宗教や宗派間での争いが後を絶たないが、インドの場合はどうなのか。同国では、ヒンドゥー教、イスラム教、仏教など、一つの国の中に異なる宗教が居合わせているが、やはり争いが絶えないのか、それとも互いに共存共栄しているのか。
今回はそうしたインドの「宗教事情」についてレポートする。
「宗教のるつぼ」としてのインド
まず、インドではそもそも「無神論者」を見つけることが非常に難しい。
筆者は首都ニューデリーに滞在中、移動のために乗ったすべてのタクシーの運転席に、ヒンドゥー教の携帯用の本尊が安置されていることを発見。これに留まらず、街中に「ヴィシュヌ神」や「シヴァ神」を象った肖像画や銅像が多く掲げられているのを目にし、驚いた。
また市内の某所では、イスラム教徒が礼拝施設のモスクと衣食住が一体となった「イスラム街」を形成し、自給自足に似た生活を送っていた。
ブッダガヤでは、土やワラでできた家に住むなど貧しい生活をしている人が多かったが、仏教徒の間にはそうした悲壮感は漂っておらず、むしろ「仏教の聖地」を守る者としての誇りが感じられた。
各宗教とも、それぞれに立派な「寺院」と熱心な「信者」が存在し、衣食住の面で棲み分けがなされている点が印象的。そのため、お互いが積極的に交流している様子はないが、そうかといって排斥し合う様子もない。各宗教を信じる12億人以上の人々が、お互いの「信仰」を認め合い、「インド」という1つの空気感を作り出しているのだ。
日本では、日本国憲法第20条で「信教の自由」が保障されているにも関わらず、宗教を日陰の存在に追いやり、無視あるいは異端視することによって1つになろうとする傾向がある。「宗教を信じる人を受け入れ、尊重する」という点において、インドの人々から学ぶべきことは多い。
日本における「宗教融和」の素晴らしさ
一方で、日本からインドに伝えられるものとして「宗教融和」の考え方があるだろう。インドでは各宗教がお互いに“共存"はしているが、"融和"するところまではいっていないように思われるからだ。
日本は長い歴史の中で、日本神道という伝統宗教をそのまま残しながら、仏教や儒教、キリスト教などを受け入れてきた。
聖徳太子が7世紀、「国体」としての神道の枠組みは残しながら、仏教を「国教」として取り入れ、両者が共存共栄する体制を築いたのは有名だ。その後、日本神道の「教え」にあたる、(1)心身の穢れを落とす「禊払い」、(2)調和を大事にする「和の心」、(3)正義を守る「武士道精神」が、「執着を去り、心の平静を得る」という仏教の教えと合わさり、「神仏習合」という思想として広まっていった。
また江戸時代には、儒学が武士の学ぶ正式な学問とされ、その秩序を重んじる教えが260年を超える泰平の世を築く元となっている。
このように、各宗教の間で互いの教えの良さを認め合い、補完し合うことによって、社会の安定や発展につなげていくことができるのだ。
日本人の多くは、正月には神社へ初詣に行き、夏にはお盆休みを取り、クリスマスにはプレゼントを用意してパーティを楽しむ。敬虔な信仰者から見れば、「節操がない」と断罪されそうだが、心のどこかで無意識に「それぞれの良いところ」をつかみ取っているとも言える。
インドのように、異なる宗教が隣り合っている環境では、本当に全人類を幸福にできる「普遍性」を帯びた教えが求められているのかもしれない。
(幸福の科学学生局 原田翼)
【関連書籍】
幸福の科学出版 『宗教社会学概論』 大川隆法著
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