デビューから60年以上が経過した現在でも、世界中で愛されているビートルズ。

今年1月には、デビュー60周年を記念して製作された、1966年のビートルズの来日と日本武道館での公演を巡るドキュメンタリー映画「ミスタームーンライト ~1966 ザ・ビートルズ武道館公演 みんなで見た夢~」が公開されるなど、その輝きは増すばかりだ。

本誌・本欄では、ジョン・レノンがイエス・キリストの魂の一部であり、ポール・マッカートニーの過去世がイエスの弟子・パウロであったという霊的真実を伝えた。

こうしたことを考えると、20世紀後半に出現したビートルズが大ヒットした背景には、天意が働いていたことが推測できる。ただ、特に若い世代には、ビートルズの残りのメンバー2人がどのような人物かを知らない読者も多いだろう。

そこで、ドラム担当のリンゴ・スターと、ギターのジョージ・ハリスンについて、2回に分けて、その人生をたどってみたい。今回は、リンゴ・スター。

両親の離婚、貧困、病弱なリンゴ少年が病院で出会ったもの

1940年7月7日、リンゴ・スター(本名はリチャード・スターキー)はイギリスのリバプールで労働者の家に生まれる。父は家庭に興味を示さず、リンゴが4歳のときに両親が離婚してしまう。

その後、リンゴは父の姿をほとんど見ることはなく、母が掃除婦やバーテンダーなどをしながら彼を育てることになった。当然、経済的にも苦しく、家庭の豊かさで言えば、ポールとジョージは普通程度、レノンはやや貧しく、リンゴは貧困に近かった。

さらに、幼少時のリンゴは病弱だった。

6歳の時に腹膜炎にかかり、ほぼ1年、療養生活をよぎなくされる。学校の勉強が遅れ、家庭教師をつけてもらって追いつくのがやっとだった。その後、13歳の時に結核にかかり2年ほど療養生活が続いた。勉強の遅れはさらに広がり、学校に通っても授業についていけなくなる。将来が危ぶまれる状況だった。

しかし、ある出来事が、リンゴ少年の未来を変えることになる。リンゴが入院していたころ、病院の先生にドラムの叩き方を教えてもらったのだ。そして、病院のベッドの横にあるキャビネットを木槌で叩き、パーカッションのように音を鳴らしている時、音楽の面白さに気づいた。

当時のリバプールでは、高い楽器を買えなくても音楽が好きな人たちが、楽器の代わりに家庭用品を鳴らして歌ったりしていた(スキッフル・ミュージック)。少年時代のリンゴは、その輪の中に入り、ドラムに相当する打楽器のパートを演奏するようになる。

継父がなけなしのお金で買ってくれたドラムセットが人生を変えた

13歳のころ、母親がペンキ職人と再婚。その継父は、リンゴが音楽に熱中している姿を見て、ある時、お金を工面して立派なドラムセットを買ってきた。

継父は葬儀で郷里に帰った時に、たまたま店頭でドラムセットを見つけたが、自分の持ち合わせだけでは足りなかったので、親戚にもお金を出してもらい、何とかそれをリンゴのために買って帰ったのだった。

この贈り物には、予想外の力があった。

当時、リバプールでドラムセットを持っている者は稀だったので、リンゴが努力し、腕前を上げていくと、次々と演奏の機会が回ってくるようになった。メインのギター奏者やボーカルをやりたがる若者の数と、ドラムセットを持ったドラマーの数を比べると、後者のほうがはるかに少なかったからだ。

リンゴは職を転々としながらドラムを叩いていたが、19歳の時に、「ミュージシャンになる」と決意を固める。

最後の職場だった工場でその決意を明かすと、そこのボスは「3カ月で戻ってくるに決まっている。その時は半端な仕事しか回してもらえないぞ」と言った。

「かまわないさ。ドラムが僕の人生なんだ。僕はミュージシャンになりたいんだ」

そう宣言すると、リンゴは、一人、工場を去っていく。

ミュージシャンになるための有利な条件・環境はなかった

当時、ドラマーが不足していたので、リバプールにあるほとんどのバンドでドラムを叩くことになった。ビートルズの前身であるバンド「クオリーメン」もその一つだった。

リンゴは、出会ったばかりの彼らよりも稼いでおり、先に車を買って乗り回していたとも言われている。その演奏に強い印象を受けたポールは、リバプール一のドラマーが必要だと思うようになり、リンゴを仲間に入れ、ビートルズを結成した。

その後、本格的な人生の飛躍がやってくるのだが、リンゴにはそれ以前に人知れぬ孤独と戦ってきたのだった。その歩みは、孤独に耐える実力を養うことの大切さと、与えられた機会を活かし切ることの大切さを教えてくれる。

同じように親から楽器を買ってもらっても、誰もがミュージシャンとして成功するわけではない。音楽の学校に通う機会もなく、そもそも普通の学校ですら通えなくなったリンゴに、ミュージシャンになるための有利な条件・環境はなかったと言える。

「どんな環境に生まれたって、成功者も失敗者も出てくる。『考え方一つ』なんだよ」

こうしたリンゴの人生をたどると、ジョン・レノンが霊言で力説していた「考え方一つ」で成功と失敗が分かれる、というメッセージの重みが伝わってくる。

「どんな環境に生まれたって、成功者も失敗者も出てくる。ほとんどは何かっていったら、それは『考え方一つ』なんだよ。その人がどんな考え方、マインドセットを持つかによって、全然違ってくるよね。だから、貧乏だって成功のもとになる」(『何を以って愛とするか ─ジョン・レノンの霊言─』)

家は豊かではなかったが、リンゴは継父を心から愛していた。再婚を考えていた母親から、再婚相手について、「お前はどう思う」と聞かれた時、リンゴは即座に「もちろんいいよ、最高じゃない」と答えたという。

その継父が、リンゴの才能に一縷の望みを見出し、最高の贈り物を与えた。

リンゴはその後、世界的なミュージシャンとなり、82歳となった今なお、現役で活躍を続けている。

「ドラムが僕の人生なんだ」と宣言した通り、青春の夢が、今なお続いているのだ。

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