2011年7月号記事

新・日本国憲法試案が世界の平和と繁栄に責任を負う国をつくる

幸福の科学グループの大川隆法総裁が「新・日本国憲法試案」を発表してから6月で丸2年。現憲法でも解釈変更によっては国を守れるかもしれない。だが、民主党政権による「国難」の深刻さを考えれば、やはり憲法を改正するぐらいの根本的な論議が必要だ。憲法試案に、日本と世界に平和と繁栄をもたらす道を探った。

(本誌編集長・綾織次郎)

大川隆法 新・日本国憲法 試案 2009年6月15日
前 文

われら日本国国民は、神仏の心を心とし、日本と地球すべての平和と発展・繁栄を目指し、神の子、仏の子としての本質を人間の尊厳の根拠と定め、ここに新・日本国憲法を制定する。

第一条

国民は、和を以て尊しとなし、争うことなきを旨とせよ。また、世界平和実現のため、積極的にその建設に努力せよ。

第二条

信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。

第三条

行政は、国民投票による大統領制により執行される。大統領の選出法及び任期は、法律によってこれを定める。

第四条

大統領は国家の元首であり、国家防衛の最高責任者でもある。大統領は大臣を任免できる。

第五条

国民の生命・安全・財産を護るため、陸軍・海軍・空軍よりなる防衛軍を組織する。また、国内の治安は警察がこれにあたる。

第六条

大統領令以外の法律は、国民によって選ばれた国会議員によって構成される国会が制定する。国会の定員及び任期、構成は、法律に委ねられる。

第七条

大統領令と国会による法律が矛盾した場合は、最高裁長官がこれを仲介する。二週間以内に結論が出ない場合は、大統領令が優先する。

第八条

裁判所は三審制により成立するが、最高裁長官は、法律の専門知識を有する者の中から、徳望のある者を国民が選出する。

第九条

公務員は能力に応じて登用し、実績に応じてその報酬を定める。公務員は、国家を支える使命を有し、国民への奉仕をその旨とする。

第十条

国民には機会の平等と、法律に反しない範囲でのあらゆる自由を保障する。

第十一条

国家は常に、小さな政府、安い税金を目指し、国民の政治参加の自由を保障しなくてはならない。

第十二条

マスコミはその権力を濫用してはならず、常に良心と国民に対して、責任を負う。

第十三条

地方自治は尊重するが、国家への責務を忘れてはならない。

第十四条

天皇制その他の文化的伝統は尊重する。しかし、その権能、及び内容は、行政、立法、司法の三権の独立をそこなわない範囲で、法律でこれを定める。

第十五条

本憲法により、旧憲法を廃止する。 本憲法は大統領の同意のもと、国会の総議員の過半数以上の提案を経て、国民投票で改正される。

第十六条

本憲法に規定なきことは、大統領令もしくは、国会による法律により定められる。

以上


06年秋、安倍晋三首相(当時)が首相就任早々、こう宣言した。

「私の内閣で憲法改正を政治日程に乗せる。5年後には憲法改正を実現したい」

この言葉どおり進めば、憲法改正は今ごろ実現しているはずだった。ところが現実には、憲法改正反対の左翼勢力が政権の中枢に座っている。この5年間で時代は逆回転してしまったのだ。

憲法論議に立ち返れ

07年夏の参院選で安倍・自民党は大惨敗。憲法改正に反対する左翼マスコミの総攻撃に沈んだためだった。

09年夏、政権交代してからは、民主党は子ども手当、農家への戸別所得補償、高校無償化と、バラマキ路線をひた走り、悪平等政策で国民の自助努力の精神を殺いだ。対外的には尖閣事件が起こり、中国政府が脅せば屈服する属国的な関係ができあがった。

そんななか起こったのが東日本大震災。本誌は、無神論者、唯物論者が政権の中心に立つ左翼政権に対する天の警告だと指摘している。日本を守り育てる神々が、国民が政府に依存して生きるようになったり、他国に支配されたりすることを望まないからだ。

大震災を機に、時間を逆回しして、憲法論議に立ち返らなければならない。

宗教と軍事を骨抜きにした現憲法

現憲法は、米国が占領政策で、日本が二度と歯向かってこないように、精神的にも、軍事的にも叩きのめす弱体化政策だった。

国家を繁栄させる三要素として、①宗教(価値判断能力)、②軍事(安全保障政策)、③経済(安定した経済成長)――がある。米国はこのうち宗教と軍事を骨抜きにした。

米国は国家神道を解体し、憲法では「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」と規定した(第20条1項)。これが、すべての宗教が政治や社会に関わってはいけないように捉えられ、宗教教育の実質的な禁止もそれを助長した。

しかし、善悪の源泉である宗教を社会の表側から排除したために、日本のリーダーが世界に対し、「何が正しいか」を発信できず、行動もできない原因となっている。

宗教と軍事で当たり前の姿を取り戻す

軍事の骨抜きについては、戦争や軍隊に対する罪悪感を徹底して植えつけるためのマスコミ統制を敷き、国を守る気概を根絶やしにした。その後、米国の指示はなくなったが、その情報統制の名残は今も続く。

現憲法の骨子となったマッカーサーGHQ最高司令官のメモには、「日本は、その防衛と安全とを、今や世界を動かしつつある崇高な理念に委ねる」とある。「防衛はアメリカに任せておけばいい」と言っているわけだが、これもまた今も続いている。

国家の三要素は「領土」「国民」「主権」だが、肝心の国防主権がないから、「日本は国家ではない」とも言える。

「主権国家」としての体制を整えるならば、日本は今の自衛隊の10倍の軍備が必要だとされる。日米同盟を前提にしても、3倍から5倍は要るだろう。

日本人は、核ミサイルで30分以内に日本を滅ぼせる「平和を愛する諸国民を信頼」しきっており、去勢されてしまっているのだ。

骨抜きにされた宗教と軍事において、当たり前の姿を取り戻さなければ、国難を克服することはできない。


①宗教を尊敬する国に

試案は政教分離に反する?
政教分離と「政教一致」をバランスさせた。

現憲法の中で、この「政教分離」の規定(注)ほど誤解を受けている条文はない。宗教は政治に関わってはいけないと考える人が多数いる。
正しい解釈は、米国憲法の政教分離原則と基本的に変わらない。米国は英国内の宗教弾圧を逃れたピューリタンによってつくられた国なので、「国家が特定の宗教と結びついて、他の宗教に介入・干渉していけない」と解釈する。つまり、宗教ではなく、国家の行動を縛っているのだ。
政教分離は排他性の強いキリスト教の性格と深く結びついている。16世紀の宗教改革以降、宗教戦争が頻繁に起き、少数派への宗教弾圧も多発したため、信教の自由を守るために政治を宗教から分離した。
その点、寛容性の高い仏教は歴史的に政教分離が問題にならない。聖徳太子は十七条憲法で「三宝を篤く敬え」と仏教信仰の規定を入れ、それが日本の国柄となったが、日本神道や儒教など他宗教と共存してきた。
試案では、前文で仏教のような寛容な宗教が政治にいい影響を与える祭政一致的な状態を想定している一方、第二条は、すべての宗教が守られる信教の自由を謳い、政教分離との絶妙のバランスを取っている。
宗教と国家の理想的な関係を追求しており、この中に宗教を尊敬する国が立ち現れてくるだろう。

この課題に明確な答えを出しているのが、新・日本国憲法試案だ。あえてポイントを絞れば、三つの柱がある。

①宗教を尊敬する国にする (前文、第二条)。

②自分の国は自分で守れる体制を取り戻す(第五条)。そのために国防上の責任者を明確にし、リーダーシップを確立する(第三条、第四条)。

③自助努力の精神を経済活動や社会保障の考え方の基本とする(第十条、第十一条)。

宗教は国家の土台

前文は、「神仏の心を心とし」「神の子、仏の子としての本質を人間の尊厳の根拠と定め」と盛り込んでいる。

これは、「神仏が存在し、人類を導いている」「人間は神仏から分かれてきた存在である」という、世界では当たり前の価値観を受け入れることを意味している。

1776年のアメリカ独立宣言も「すべての人が平等に造られ、造物主によって一定の奪いがたい天賦の権利を与えられ」と謳い、人間の尊厳と人権の根拠が「神の子」にあることを確認している。

「人間は単なる機械にすぎない」という唯物論に立たないということは、国家についても同様だ。近代ドイツの哲学者ヘーゲルは「国家は宗教を土台とする」と述べ、国家を宗教と本質的に結びついた一つの神聖な有機体だと洞察した。

試案もこうした考え方に立っている。前文にある「神仏の心」は、ヘーゲルの言う「絶対精神」であり、キリストを超える普遍的な神のことを指す。

歴史的・思想的に見ても、宗教と国家は決して対立的なものではない。宗教を軽んずる戦後日本の風潮は、世界の非常識だ。

宗教が民主主義を守る

民主主義の観点からも、宗教は欠かせない。

19世紀の政治思想家で、「民主主義の守護神」と呼ばれるトクヴィルは、「多数者の専制」をどう防ぐかを思索し、『アメリカの民主政治』を著した。

ヒトラーのナチスに見られるように、民主主義から全体主義は生み出される。これを防ぐものとしてトクヴィルは、道徳的な習俗の大切さも強調し、その第一の源泉として宗教を挙げた。

トクヴィルはこう述べている。

「世論は権力のうちの第一位の、そして最も不可抗的な権力としてますます出現してくるが、宗教を除いてはこの世論の打撃に対して、長い間抵抗できるほどの強力な支柱は、他のどこにも存在していない」(注)

宗教を社会から追い出したら、国民は善悪の判断ができなくなり、マスコミに煽られた世論に政治が流されてしまう。トクヴィルは、宗教こそが民主主義を守る砦であると指摘したのだ。

トクヴィルは、宗教精神と自由の精神が「緊密に結合し、一体となって」いることがアメリカの繁栄をつくっていることを目の当たりにした。だからこそ、唯物論は「民主的民族の不倶戴天の敵」「人間精神の危険な病気」であり、「人びとを物質的な享楽の方に誘惑し、ひきずりこむ」と警告している。

この点からすれば、戦後日本で俗に「宗教は政治に関わってはいけない」と言われることが間違いだと分かる。むしろ、宗教が政治に関わらないことが民主主義を破壊する。

今の日本の国難は、それが出発点になって起こっている。今こそ、宗教は政治について発言し、積極的に影響を与えていかなければならない。「宗教政党は政教分離に反する」という言説は、教養不足にすぎないのである。

(注)『アメリカの民主政治』では、「アメリカ人の政治的制度の維持のために、どうしても必要な原因についてすでに検討した。そして宗教はその主要な原因であると、わたくしには思われるのである」とも指摘。


②「国を守る」「世界平和の実現」の両立

皇室は守る?
皇室が廃位や死刑を免れることができる。

試案に対してよく出るのが「皇室を守らないのか?」という疑問だ。逆に、皇室を末永く守ることを試案は目指している。
一般に「王冠は敗戦を乗り越えられない」と言われる。第一次大戦後のオーストリアのハプスブルク家やドイツのホーエンツォレルン家は取り潰された。
それと同じ運命になる危険が先の大戦後、日本にもあった。米政府内では「天皇の戦争責任を追及すべきだ」という声が強かったが、マッカーサーが突っぱね、昭和天皇は廃位や死刑を免れた。
現憲法下でも、天皇に政治的実権があるように見えるので、万が一、日本敗戦の事態になったら、再び存続の危機がくるかもしれない。相手が中国ならばなおさらだ。
平安時代の摂関政治以来、幕末まで、天皇は政治権力から切り離された文化的伝統であり、宗教的存在だったからこそ、皇統が続いてきた。本来の皇室伝統のあり方に戻し、政治的責任を大統領に負わせることが皇室を守る。

外交・防衛についての試案の特徴は、第五条で「国民の生命・財産・安全を守る」と謳う一方、前文と第一条で「世界平和の実現」を盛り込んでいることだ。

言葉の上では簡単だが、現実を考えれば、中国や北朝鮮の脅威から国民を守りながら(リアリズム)、同時に世界的な宗教紛争をなくしていこうという高い理想(リベラリズム)を掲げたということで、実現は簡単ではない。

リアリズムの立場だけなら、ルネサンス期の政治思想家マキャベリが言うように、「君主は戦争と軍事訓練以外の職務に励んではいけない」ということになるが、それだけでは今のテロ戦争や宗教対立は乗り越えられない。

現在、米国はそれに苦しんでいる。キリスト教やイスラム教の排他性を克服するような新たな宗教的価値観を体現した大国の出現が要請されている。

健全な愛国心を取り戻す

自分の国を自分で守るためには、軍備だけではなく、愛国心を復活させなければならない。

ヘーゲルは国家の最も大切な価値観として愛国心を挙げた。国家に宿る普遍的な神の心を具体化して、理想国家をつくるという気概が愛国心だという。

「国家は守られねばならないが、国家の目的が(国民の)生命と財産の保護にしかないとしたら、国家を守るために生命を危険にさらすのは、矛盾であり、本末顛倒」とヘーゲルは『法哲学講義』で語る。

理想国家づくりの神聖な場だからこそ、命をかけるに値する。こうした健全な愛国心を取り戻したい。

強い大統領は即ちいい政府である

「国を守る」ことと「世界平和の実現」を両立するカギが大統領制の導入だ。

日本の政治は、他国から見て、だれが最終責任を負っているのか分かりにくい。

天皇が首相を任命したり、外国の大使を受け入れたりしているため、天皇に政治的な実権があるように見える。首相は国会の多数派から選ばれるので、政権党の有力者の意見が通りやすく、首相の判断が見えにくい。

これは、実権が将軍にあるのか天皇にあるのかあいまいで、意思決定ができなかった幕末期とまったく変わらない。

実は、米国が大統領制を採用したのも同じ理由だった。合衆国憲法を起草した建国の父の一人ハミルトンは、「行政部が脆弱であることは、理屈で何と言おうと、悪しき政府にほかならない」と述べている。そのうえで行政の権限行使は、「多数の人間が行うよりは、一人の人間が行うほうがはるかにふさわしい」と強調。独裁的とも言える権限を持ち、最終責任のはっきりした大統領制の意義を力説した。

国会、行政組織、マスコミに足を引っ張られにくい大統領制

大統領制の最大のメリットは、意思決定のスピードだ。

日本の政治の意思決定が遅いのは、国会との癒着や、行政組織に対する政治家の指導力のなさ、マスコミの揚げ足取りのため。大統領制を導入し、国民から直接選ばれれば、民意を受けて決断し、国会や行政組織、マスコミに足を引っ張られにくくなる。

一方で、試案は、三権分立をより明確にするなど、大統領の暴走に対する歯止めをかけている。


③自助努力の精神を国の基本に

たった17条で大丈夫?
最小限の条文で「自由の大国」の理想を目指す。

「前文も含めたった17条の条文で大丈夫か?」という指摘がある。
だが、試案は、「命令」を連発する国家社会主義とは対極に立つ。「自由の領域が侵されないよう、最小限の法律を定める」という経済学者・哲学者ハイエク流の哲学が基本にある。政府権力から自由を守る考え方は、ロックやモンテスキューの政治哲学にも通じる。
米国の草の根保守運動「ティー・パーティー」もこのスタンスで、オバマ政権の医療保険改革など社会主義色の強い政策に対し、大反対している。
試案には社会権が明記されていないが、前文や、第一条の「和を以て尊しとなし」などの規定があるので、平等権は担保される。大企業や富裕層が貧しい人たちを助けることをノブレス・オブリージュ(高貴さに伴う義務)として課す意味も含むので、米国のような極端な競争主義の歯止めになる。
試案は自由の優位に加え、「国民の政治参加の自由」(第十一条)を明記した。これは、ハイエク流が政府権力から逃れるためのやや消極的な自由だとすれば、公的幸福の創造に自ら参画する積極的な自由だ。20世紀の政治思想家アーレントは、国民の意志によって政府や法律をつくり、その中で自分たちの運命を開く「自由の創設」を民主主義の根本原理として説いた。
試案は「日本と地球すべての平和と発展・繁栄」(前文)や「世界平和実現」(第一条)を掲げ、それに努力することを国民に求めている。永遠の理想を追い求める中に、「自由の大国」としての日本を実現しようとしているのだ。

民主党政権は震災後、「国家社会主義」の完成により近づいた。

国家社会主義は、戦時中の配給社会のように、政府が国民の収入や資産、生活や仕事をこまごまと管理する体制。

政府から次々と命令が発せられ、国民を縛りつける。震災後、浜岡原発の全面停止「命令」などで、「統制経済」ができあがった。今は全国民が「戦時下のような窮乏生活をせよ」と命じられている状態だ。これこそ、菅首相が望んだ、国民すべてが貧乏生活であるために不幸を感じなくて済む「最小不幸社会」だ。

平等より自由を選べ

現憲法には、財産権など様々な自由権があるが、実際には「公共の福祉に反しない限り」という言葉で、自由が大きく制約されている。それを決めているのは官僚や政治家で、結局、自由よりも平等の価値が優先されてきた。

その極端なケースが民主党政権だが、これに歯止めをかけるために、「自由の優位」を明確にしておく必要がある。それが第十条の「機会の平等」「自由の保障」、第十一条の「小さな政府」「安い税金」だ。

「自由と平等のどちらかなら自由を選べ」という趣旨であり、国民の中の自助努力の精神を醸成する。

この条文のバックボーンには、「人間は神仏に創られた神の子・仏の子であり、自分で努力して人生を開く機会をこの世で与えられた」という普遍的な宗教観がある。民主党政権のように、国民が政府に依存して人生を成り立たせることは、自助努力の姿勢を損ない、結局はその人自身の幸福にはつながらない。

アメリカを超える新しい国家モデルを

今の民主党政権は、宗教や軍事が骨抜きとなった戦後日本の成れの果てだ。だから今、戦後日本の価値観そのものを大転換するという大仕事が必要になっている。試案にはその仕事を成し遂げるパワーと智慧が詰まっている。

合衆国憲法の起草者ハミルトンは、米国独立を振り返って、「アメリカ人は、人間社会の歴史に比肩しうるもののない革命を完成した。また、地上にモデルのない政府組織を樹立した」と語った。

超大国の米国に退潮傾向がうかがえるなか、日本は米国を超える「新しい国家モデルを樹立」する時期に来ている。

日本はこのまま一弱小国に落ちぶれるのか、それとも、世界の平和と繁栄に責任を負う大国となるか。その問いを新・日本国憲法試案は突きつけている。