『仏陀再誕』を否定するものは仏教ではない

反政府デモが大規模化するなど、政治的な混乱が続いているタイ。政治の動向が注目されるにつれて、エイズ患者の増加、麻薬の蔓延、同性愛の問題など、タイの社会問題もクローズアップされるようになっているが、これらの問題の根底には同国が奉じる上座部(小乗)仏教が大きく関係している。

タイをはじめ、スリランカ、ミャンマーなど、東南アジアの仏教徒たちは、自分たちは釈尊在世時から続く初期仏教の教えと戒律を厳格に守っていると考え、そのことを誇りにしている。特にタイでは、成人男性の多くが数カ月間の出家修行をする習慣がある。しかし、戒律重視はよいが、その考えが半ば「戒律さえ守ればよい」という免罪符になっていること、また禁欲させられた反動が生じることから、それが社会のモラルを引き下げているのではないかと指摘されている。

しかし、心の修行こそが釈尊の本意であり、戒律は自らを戒めて修行を完成させるための手段であったはずだ。形骸化した現在の上座部仏教は、釈尊の本来の考えからは離れているようだ。そのことを象徴的に示しているのが「仏陀は決して生まれ変わらない」という考え、「仏陀再誕」を否定する思想だ。まるで仏陀を忌み嫌い、敬遠するかのようなこの考え方は、仏教の解釈として本当に正しいのか。

「仏陀は再誕しない」は極めて不自然な思想

上座部仏教では、悟りに到達して仏陀となった存在は転生輪廻から解脱し、もはやこの世界には生まれ変わってこないと解釈されている。最近、仏教活動家の佐藤哲朗氏はこの上座部仏教の教えに基づいた『日本「再仏教化」宣言!』という本の中で、「(仏陀は)輪廻の世界から『解脱』を果たした方です。ですので、絶対に『再誕』などしないのです」と述べ、大川隆法・幸福の科学グループ創始者兼総裁を「再誕の仏陀」として信仰する同教団を批判した。そこで、上座部仏教の最大のポイントの一つである「仏陀再誕否定論」を検証してみたい。

上座部仏教は、成立が古いとされるパーリ語の原始仏典を聖典としている。そして、そのパーリ仏典をひもとくと、確かに、釈尊の教えの基本として、苦しみばかりの転生輪廻から逃れるべきことが説かれている。悟りを得て仏陀となり、迷いの転生輪廻の輪から解脱する(もうこの世には生まれてこない)ことこそが仏教の目的であり、八正道をはじめとする教えはそのための方法だというのである。

すると、釈尊は悟りを得たのであるから、「仏陀となった釈尊が再びこの世に生まれ変わってくることはない」という解釈が成り立つ。パーリ仏典やそこからの翻訳を含む漢訳の阿含経典の中には、釈尊がもはや生まれ変わらないと自ら宣言している箇所もあるため、一見、この解釈は動かし難いように思える。過去にも多くの仏陀がいたという「過去七仏」や、未来に仏陀が出現するという「未来仏」の思想も、あくまで釈尊とは異なる存在という位置付けだ。

確かに、「仏陀は迷いの輪廻を脱する」という教えは繰り返し説かれており、それが原始仏典の中心的な教義であることは間違いない。しかしその一方、そこには「仏陀となってしまえば、この世への転生が(たとえ仏陀自身が希望しようとも)不可能となる」とまでは書かれていない。

原始仏典においても、釈尊は数多くの奇跡を起こし、常人を超えた威神力を示している。その釈尊が「仏陀となった」という理由で、他の衆生でもしている転生輪廻ができなくなるというのは極めて不自然な考え方ではないだろうか。素朴な宗教的感情からしても、やはり「仏陀となったならば、強制的な迷いの転生輪廻からは解放される。しかし、衆生救済のため、自らの意志によって再誕することはありえる」と解釈するのが筋だろう。

また、タイ仏教をはじめ、上座部仏教では、輪廻から解脱した釈尊について「涅槃に入った」と言うばかりで、入滅後の釈尊が具体的にどうなったのかについて明確に説明できていないようだ。甚だしきにいたっては「釈尊は消滅した」と考える人たちさえいる。

しかし、消滅したり消息不明になったりするのが仏教の目標なのだろうか。これが釈尊の説いた教えだとしたら、このような宗教が多くの人々に支持され、世界各地に広がったとは社会学的にも考えにくい。現代の上座部仏教は、初期の仏教を正しく継承していると主張しているが、釈尊の真意を大きく曲解している部分があると考えざるをえない。

これらの問題について、大川隆法総裁は「(悟りを得て仏陀となると) 約束ごととして何度も何度も生まれ変わらなくてはいけないという、通常の人間の魂としての生まれ変わり、すなわち、カルマの刈り取り的な修行としての魂の生まれ変わりはないわけです。(中略)しかし、地上の人びとを救済するために、あえて人間の肉体に宿って出てくることはあります 」(『悟りの挑戦・上巻』)と説いている。

また、釈尊が転生輪廻からの解脱をよく説いていた理由として 、「当時は、『何にでも生まれ変わる』と考えられていたので、人々には、『転生輪廻が延々と続くのはたまらない。これで、もう最後の生存にしたい』という気持ちがあったわけです」 (『「幸福の法」講義(1)』※)と説明する。

釈尊が活躍した当時のインドでは、人間は地獄に生まれ変わることもあれば、この世への転生でも動物や虫に生まれ変わることもあると考えられており、そうした転生輪廻は苦しみをもたらすものとして恐れられていた。そのため、釈尊も「悟りの力によって迷いの輪廻から解脱できる」という部分を強調して教えを説いた時期があったということだろう。しかし、それは「仏陀自身の転生が不可能になる」ということでは全くなかったのだ。

パーリ仏典は仏陀の直説そのままではない

しかし、それならば、パーリ仏典が仏陀再誕を否定しているという事実はどう考えるべきだろうか。例えば『希有未曾経』には釈尊の言葉として「これは最後の生まれである、もはや二度と生存はない」という記述がある。

これについては、パーリ仏典自体の信頼性の問題がある。パーリ仏典は最も古い経典だとして上座部仏教では特に尊重されている。彼らの伝承によれば、パーリ仏典こそ、紀元前500年頃だとされる釈尊の入滅直後、主だった弟子たちによって行われた第一回仏典結集(教えが散逸しないよう内容を皆で確認し合うこと)の内容そのものだとされているが、それは正しくない。

実際には、パーリ仏典は釈尊の入滅から数百年も経った「部派仏教」の時代に、「分別説部」と呼ばれる一部派が編纂したものにすぎない。その中には、釈尊に遡る古い内容も保存されているのは確かだが、正確さや網羅性からみて金科玉条のごとく扱うほどのものではない。現在はほとんど失われているが、他の部派もまた他の言語で著した別系統の経典を持っていたことが分かっている。

この「部派仏教」の時代には、難解で哲学的な仏教理論(アビダルマ)が流行っていた。例えば、「説一切有部」という部派は、釈尊の説いた「無我」を「無霊魂」として強引に解釈した。部派仏教のこうした合理主義的な思想が、釈尊の教えの記録であるはずの経典の内容に混入したとしても不思議ではない。

この時代は、保守的な人々がアビダルマに熱中する一方、民衆やそれに近い僧侶の間で釈尊の神聖化が進み、仏陀信仰が盛り上がった時期でもある。これが後の大乗運動につながったが、こうした動きを牽制するため、保守的な人々が「仏陀は再誕せず」を強調した可能性も十分考えられる。

仏陀再誕を否定するようなパーリ仏典の記述も、後世の創作であるか、創作ではないにせよ釈尊本来の意図からはニュアンスを曲げて記述されていると考えるべきだろう。パーリ仏典も後世に作成されたという点では、大乗仏教の諸経典と同じであり、その意味での限界は認める必要がある。

宗教によく見られる「聖者の再誕」という思想

『般若経』『華厳経』『法華経』『阿弥陀経』など大乗仏教系の経典は、釈尊入滅後500年を経た紀元前後に編纂・製作が始まったとされており、確かに釈尊の直説でないものをかなり含んでいる。しかし、だからと言って一概に否定することもできない。当然、その思想の中には釈尊在世時の教えに由来するものもある。

大乗的な大衆伝道はすでに釈尊在世時からあり、経典化(文字化)されるまでに時間はかかったが、彼らは仏典結集をしたグループとは別に釈尊の教えを伝承していたのであり、それが大乗仏教の「毘盧遮那仏」「久遠実成の仏陀」など、永遠の昔から宇宙を統べていた偉大なる仏陀という見方につながった。彼らは仏陀の本質を感じ取り、その真実の姿の一端を伝えているのだ。彼らの説く通りなら、釈尊は最初から仏陀として地上に降臨していたことになる。

仏教に限らず、世界の宗教には、「聖者の再誕」という思想がしばしば見られる。キリスト教では一般的に転生輪廻を認めないが、『聖書』では、イエス・キリストが世の終わりに地上に再臨することが記されている。また、イエスが洗礼者ヨハネについて、彼が預言者エリヤの再来であると述べたという記述もある。

大乗仏教の一つである浄土教にも似た考え方がある。中国の曇鸞から日本の親鸞にいたる浄土教の教えの中には「浄土の世界に往生した人が、阿弥陀仏から大衆救済の力を与えられ、再びこの世に戻ってくる」(還相回向)という考え方がある。仏陀そのものではないが、救済力を持つ存在が地上に再び生まれるというのだ。このように、「聖なる存在が再び生まれ変わる」という思想は宗教的にはポピュラーなものだ。

もし仏教に、「出家修行者のお手本」という程度の仏陀観、「解脱して消息不明になる」という仏陀観しかなかったとしたら、仏教が世界中のあらゆる社会階層に浸透することはなかっただろう。やはり、大乗仏教が説くような「大宇宙を統べる理法としての仏陀」「人々を救う救済仏」という思想を打ち出したからこそ、キリスト教やイスラム教の「創造神」「造物主」に対抗しうるものとなり、仏教は世界宗教となったのだ。

いずれにせよ、パーリ仏典のみを仏陀の真説とし、それに基づいて「仏陀再誕否定論」を説くのはそもそもピント外れである。

「仏陀再誕」を否定して得をするのは「悪魔」

「釈尊はどこか遠くへ去った」「釈尊は消滅した」という思想と、タイ仏教などが釈尊の真意から離れて形骸化し、モラル崩壊をもたらしている事実とは関係があるようにも思える。釈尊がすでに僧侶たちを見守っていないと考えるなら、2500年前の教えや戒律が形骸化するのは当然である。

さらに率直に言えば、仏陀再誕を嫌がるのは、その敵である悪魔の勢力だろう。大川隆法総裁は法話『宗教と唯物論の相克』において 「(仏陀が)悟ったら、もう二度と、絶対にこの世に還って来れないとなると、誰が得をするんですか」「『悪魔の世界には手を出さない』という約束になりますよね。これはおかしい」 と指摘。また、法話『スリランカで考えたこと』では 「小乗仏教では、『悟りを開いて、この世の束縛から解脱し、自由になったならば、もう二度と、この世に帰ってこない』とされていますが、これを、『この世に帰ってこれない』というように解釈すると、その考え方は、結果的に、悪霊や悪鬼、悪魔などの考え方と同じになってしまいます」 と釘を刺している。

仏陀再誕を強く否定する人たちは、自分が悪魔と同じ心境になっていないか、一度点検する必要があるだろう。今回、『日本「再仏教化」宣言!』を書いた佐藤氏にしても、「『仏陀再誕』のない明るい世界」などという見出しを使っているほか、「仏陀は再誕しませんが、私たちは別にさびしくないんです」とも述べている。なぜ、「仏陀再誕」がないのが「明るい世界」なのか。佐藤氏の言う「明るい世界」とは、一体どういう世界なのか。「仏陀のいない、悪魔にとってのパラダイス」なのだろうか。佐藤氏のこうした記述からは非常に奇異な印象を受ける。やはり、仏教者として価値観が転倒していると言わざるをえない。

再誕の仏陀として活動する大川隆法総裁は、1986年の立宗以来、2100回以上の説法を重ね、1400冊を超える書籍を発刊。世界100カ国以上に信者が広がり、急速に世界宗教への道を歩んでいる。幸福の科学で説かれる仏法真理は、かつての世界宗教の教えを踏まえつつも、それらを遥かに超えるスケールを持つものだ。キリスト教的な愛や仏教的な心の教えはもちろん、「宇宙の法」や「アルファの法」など、宇宙スケールでの創世記や空間論をも明らかにしつつある。

大川総裁は、2011年、国民の多くが上座部仏教を信じるスリランカで説法を行った。数十社のマスコミが取材し、テレビ放送もされたこの説法の後、参加者の7割に当たる1万人近くの人がその場で幸福の科学に入会。その模様を取材したインド・ビハール州のアージ新聞は「スリランカでも仏陀再誕が認められた」と驚きをもって報じた。スリランカの人々は、数千年前の文献や伝統的な教えよりも、自らの心で直に受け止めた「仏陀再誕」の感触を信じたということだ。

仏陀が再誕するなら、かつて自らが説いた教えに制約されることなく現代人のために新しい法を説くはずだ。ましてや、後世に編纂されたパーリ仏典や仏教教学などに制限されることもありえない。パーリ仏典を根拠に、仏陀再誕を否定することの無意味さに気づくべきだろう。

※書店では取り扱っておりません。最寄りの幸福の科学の支部・精舎までお問い合わせ下さい。

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