みなさん、こんにちは。およそ私たちが何かの分野についての教養を身に付けるには、その分野の歴史を知ることが欠かせません。映画史のベースとなる年号はフランスで映画が生まれた1895年であり、今年2025年は、それから130年目の節目です。その130年間の歴史、特にハリウッド映画の歴史を代表する1本となると、やはりこの『風と共に去りぬ』ということになりそうです。
本作が公開された1939年には、他に『駅馬車』『オズの魔法使』など米映画の名作が生まれました。戦前のアメリカ映画産業に資本と才能と人気が集結し、今なお「ハリウッドの絶頂期」と言われるのが、この年です。
今回『風と共に去りぬ』をとりあげる理由は、全国の劇場で実施中の「午前十時の映画祭」で一昨日から上映されているからです。同企画は今年、過去14年間の上映作品からリクエストを募り、選りすぐりの作品を並べています。「ザ・リバティ」は同企画と提携しているわけではありませんが、読者の皆様に超名作の数々をスクリーンで堪能していただきたく、同企画の上映作品の紹介が多くなる点、何卒ご理解ください。
「南北戦争前後のジョージア州アトランタを舞台に、上流階級の娘、スカーレット・オハラがたどる波乱万丈の人生を壮大なスケールで描いたスペクタクル・ロマン。ヴィヴィアン・リー演じる美しく情熱的なヒロインは、今も時代を超えて魅力的。アカデミー作品賞ほか全10部門に輝いたアメリカ映画史に名だたるテクニカラー超大作。」(「午前十時の映画祭」サイトより)
さて、リバティ読者の皆様には、単に映画史上の名作という以外に、本作をお勧めする理由がもう一つあります。大川隆法・幸福の科学総裁が、京都で大学受験の予備校に通っていた時期に街の映画館でこれを鑑賞した思い出を、何度か語っているのです。たとえば大川総裁の自伝的小説『小説 永遠の京都』には、主人公の鏡川竜二が浪人生活中にこれを観た感想が、こう綴られています。
「映画は圧巻で、様々な賞を獲るだけの、アメリカ映画のスケール感があった。南北戦争で焼け野原になった故郷『タラ』の地で、スカーレット・オハラがもう一度、南部の復興を目ざして立ち上がろうとするところなど、後年の女性解放運動を思わせて、感動させるところがあった」
「スケール感」は本作の魅力の第一エッセンスです。焼け野原で立ち上がろうとするところは4時間に及ぶ本作の、前編のクライマックス。スカーレットが神に再起を誓う強靭な念いがスクリーンから矢の如く放たれ、紅(くれない)に染まる朝焼けの空と、thunderous(雷の如く壮麗に響く)と評される名曲「タラのテーマ」とあいまって、ほとんど神話的な美と感動をもたらします。ところが小説はこう続きます。
「しかし、竜二には疑問もあった。この南北戦争論では、鬼のような北軍が、黒人奴隷を使って、優雅な貴族的暮らしをしていた南部の財産を根こそぎ灰にしたかのようだった。その北軍の最高軍事司令官はリンカンである。リンカンはアメリカ合衆国の分断を避け、黒人を奴隷として、財産権を主張する南軍を、心を鬼にして敗ったのではなかったか。暗殺されてなお、彼が神の如くまつられているのは、彼に神の心が流れ込んでいたからではなかったのか。
竜二は、政治の世界における正義とは何か、神の正義とは何かを考え始めていた」
高校を卒業したばかりの青年に、ハリウッドの圧倒的大作を「神の正義」という高い視点から批判する鑑賞眼があったとは驚きです。その凄さを痛感するためにも、リバティ読者の皆様には本作を観ることをお勧めします。
そのように大川総裁から見て評価が相半ばする作品ですが、それでも総裁はHSU(ハッピー・サイエンス・ユニバーシティ)の映画の授業における研究対象の一本に本作を挙げています。私はその授業を担当しており、これまで『風と共に去りぬ』を14回観ましたが、いまだに飽きません。授業の参考書籍として書いた拙著『「仏法真理」で読み解く名作映画〈洋画編〉』でも本作を解説していますので、ご興味のある方はご覧くだされば幸いです。
映画芸術として最高の完成度を誇り、映画の教養を積む上でも必見でありながら、神の目から見ると思想的に問題がある。そんな人間芸術の矛盾するコントラストを意識しながら観ることで、私たちも鏡川竜二のような高度な鑑賞眼を鍛えることができます。デバイスの小さな画面ではなく、本作が86年前に想定して創られた大スクリーンで味わってこそ、その目的はよりよく達せられるはずです。
(田中 司)
『風と共に去りぬ』
- 【公開日】
- 2025年5月30日~6月26日(劇場により異なります)
- 【スタッフ】
- 監督:ヴィクター・フレミング 音楽:マックス・スタイナー
- 【キャスト】
- 出演:ヴィヴィアン・リー クラーク・ゲーブルほか
- 【その他】
- 1939年製作 | 233分 | アメリカ