「ポピュリスト」という言葉は、「人気取り」「大衆迎合主義者」などの意味で、政治家に対して使われることが多いが、現代の日本においては、言論人や評論家、マスコミなども含めて、多数派におもねる風潮が強いと言える。

本誌2023年12月号の「竹村健一のもう一つの転生 その過去世は"民主主義の守護神" - 新・過去世物語 人は生まれ変わる」では、空気に流されず、世相を斬り続けた竹村氏の驚くべき過去世を紹介した。

記事の中では、講演先などで色紙へのサインを求められた時、竹村氏はいつも「自灯明(じとうみょう)」と書くことを紹介した。

なお、「自灯明・法灯明(ほうとうみょう)」とは、釈尊が入滅する直前、弟子たちに対して、遺された法(教え)を拠り所にして、自分で自分を照らしながら生きていくように説いたものである。

今回は、自灯明という言葉を大切にした、竹村氏の人生を振り返り、その生き方から、私たちが自らの人生を切り拓いていくためのヒントを探してみたい。

両親から学んだ「自灯明の精神」「自立なくして自由はない」

竹村氏は、著書の中で、両親から教わった生き方を紹介している。

父は、兵庫の山奥から大阪に出て身を起こし、眼鏡のフレームをつくる工場を営んでいた。

誰にも頼らずに成功を収めており、母も放任主義だったので、家では「親に頼らず、自分の力で人生を切り開いて生きろ、という教えは徹底していた」(『「竹村健一全仕事」マルチ研究』太陽企画出版刊。以下、出典のないものは同著)。

ただ、両親は息子の健康にはとても気を使っており、目が悪くなったと聞けば母はあちこちの医者を訪ねて回った。体力不足だと分かれば父が疲れを厭わず、毎週日曜に子ども4人を連れてハイキングに出かけた。

放任でありながら、健やかな子供の成長を願う優しい両親であった。

その時代を回顧し、竹村氏は、父から勤倹貯蓄の精神を学んだと語っている。

「私が何かに頼ろうとすることは絶対に許さなかったので、自分から小遣いをくれと頼んだことは一度もない。大学に入ってから、生活資金を含めて、すべてアルバイトでやってきた」

また、健康に配慮してもらったことについても、「健康な体だけが自らを守るための唯一の"資本"であることを身にしみて感じていたはずだ」と述懐している。

「(自灯明は)『自らを拠り所として、自分の足でしっかりと生きてゆきなさい』という意味で、私がたいへん好きな言葉の一つだ」「この『自灯明』の精神も、私は両親から教わったのだと思う」

竹村氏は、「自立なくして本当の自由はあり得ない」ということを学んだ。

ウソをついて母にべったんを燃やされたが、一生使える"宝物"をもらった

母から、「嘘をつくな」と叩きこまれたことも明かしている。

健一少年は子供の頃、「べったん」という、めんこ遊びの一種に熱中し、たくさんのカードを集めていたが、母は、ある時、それをまとめて焼いてしまった。