《本記事のポイント》
- 内政不干渉の原理に風穴を開けた「保護する責任」
- 日本は「国連に正邪の価値判断はできない」と自覚せよ
- 9条改正および適用除外で人道的干渉の準備を整えよ
ミャンマー国軍による民主派勢力への弾圧が続く中、一般市民から国際社会の介入を求める声が上がり始めた。
国連は、安全保障理事会の10日議長声明で「暴力を強く非難する」と指摘したが、拒否権を持つ常任理事国の中露の反対で、クーデターへの直接の批判はなく、東南アジア諸国連合(ASEAN)の外相会合でも、懸念を示すにとどまった。
アセアン諸国は、次は自分たちの番かもしれないのにもかかわらず、内政不干渉の原則から踏み込んだ対応ができずにいる。
業を煮やしたミャンマーのデモ隊の中には、前回この欄で記した「保護する責任」に基づいて、軍事介入を求める意見も出ている。
内政不干渉の原理に風穴を開けた「保護する責任」
この「保護する責任」(Responsibility to Protect:R2P)は、近隣諸国で大量虐殺等が行われている場合、迅速な介入をすべきであるという理論だ。具体的には、領域国が自国民の保護という国家主権に内在する責任を果たす能力、あるいは意思がない場合には、国際社会全体がそれらの人々を「保護する責任」を負うという考え方である。
この概念は、NATOが軍事介入に踏み切った1999年のコソボ紛争や、国際社会が虐殺を止められなかった1994年のルワンダのケースを教訓として、2005年に国連総会で合意されたものである。
人道的介入の基準などが曖昧で、恣意的な介入を呼ぶと批判が絶えなかった「介入論」に対し、一定程度、明文化した基準を設定し、「内政不干渉の原則」に風穴を開けたことは成果だったと言える。
だがその実行に際し、国連安保理の授権が必要とされたため、実効性の点で、危ういものとなった。
リビアやシリアでの軍事介入
それでも2011年のリビアのケースは、「保護する責任」が安保理の決議に基づいて実行された。だが市民を護るだけでなく、政権転覆にまで至ったことで、当初から承認を渋っていた中露は態度を硬化。それ以降、安保理で「保護する責任」が承認される可能性は失われた。
その後のシリアのケースでは、中露による拒否権が発動され、国連の授権のもと、「保護する責任」が実行される見通しが立たず、各国は、独自に介入に踏み切ることになった。
具体的には、2017年4月のアメリカによるミサイル攻撃と、2018年4月のアメリカ、イギリス、フランスの軍事介入である。
各国の介入理由は異なる。アメリカとイギリスが人道的な必要性に言及し、フランスは国際法違反を強調した。
求められる介入の条件:迅速さ・当事国の要請
リビアではカダフィ政権の国軍が国民を空爆、シリアではアサド政権が化学兵器で国民を殺害した。軍部のみならず警察まで一般市民を「死ぬまで撃て」と命令が下されているミャンマーの事態もそのような残虐な状況に刻一刻と近づいてきている。
大川隆法・幸福の科学総裁が3月11日に収録したフライン最高司令官の守護霊霊言では、同氏守護霊は、カンボジアのポルポトのような殺戮をもいとわない態度を示していた。
そのような中で優先すべきは「迅速な介入」である。軍事力のないデモ隊は、長期的に持ちこたえられないからである。「ミャンマーのチベット化」も近いうちにやって来るかもしれない。
国連に正邪の価値判断はできない
こうした状況の中で、改めて自覚すべきであるのが、国連の限界である。
そもそも日本では、国際法学者の横田喜三郎の影響から、国連中心主義を唱える論者も多いが、国連の常任理事国に「正邪」の判断能力を委ねるのには限界があると悟るべきである。
常任理事国は第二次世界大戦の戦勝国クラブにすぎず、新疆ウイグル自治区で約300万人の自国民を強制収容所に収容する常任理事国の中国は、国家として国民を護る義務を果たしていない。
その中国が「人道的干渉」による「内政干渉」を許すはずがない。
世界平和の実現のために創られた国際機関の中枢に、全体主義的価値観を奉じる中国が占める以上、国連を中心とする国際システムが「正義」の実現に資する機関だと期待をかけるのは、現時点では現実的ではない。
しかも拒否権を有する中露の拒否権発動がボトルネックとなり安保理が身動きが取れなくなり「迅速さ」が失われがちである。そうした中では、それぞれの加盟国が国連憲章上に規定される集団的自衛権を行使して、安保理の判断を超えて「正義」を実現しなければならない状況に置かれている。
だからといって、どのような場合でも介入してよいというわけにはいかないのは確かだ。
一つの指針となるのは、1986年のニカラグア事件である。
ニカラグアでは、冷戦期に親米政権が倒され、親ソ政権が樹立。裏庭が共産圏になるのを防ぐためにアメリカは、ニカラグアの反政府軍を応援する形で介入した。
この案件は、1986年の国際司法裁判所で、介入される当事国が助けを求め援助要請を出している時に、集団的自衛権が発動されるべきであるという判決が出され、「援助要請」が集団的自衛権行使の要件という基準が示された。
これをミャンマーのケースに当てはめて考えてみよう。ミャンマーでは、政権を追われた国民民主連盟(NLD)側が臨時政府「ミャンマー連邦議会代表委員会 (CRPH) 」を樹立。国民は実権を握る国軍を、テロリストと呼び、その正統性を認めていない。
従って、日本は軍事政権を承認せず、民主派を正統な政府として認め、彼らの援助要請に応える姿勢を堅持すべきである。
またバイデン米政権は、人権を外交政策の中心に据えてはいる。だが一方で、バイデン大統領は中国に対し、文化的にそれぞれの国が異なる基準を持っていることを肯定する文化的相対主義者ともいうべきスタンスをとっている。このことから日本はバイデン政権がミャンマーの問題で迅速に動かないことも想定に入れるべきだろう。NLD側が援助要請をしてきた場合には、急ぎ介入を認めるよう、日本は国際世論を後押しし、国際的な包囲網を形成すべきである。
日本が欧米に率先して、民主派勢力への支援を打ち出すことは、ウイグル族の人権問題でも、中国批判において欧米と足並みを揃えることを意味する。アメリカはウイグル族の拘束を、国際法上の犯罪である「ジェノサイド」と認定したが、日本はまだ歩調を合わせていない。日本は、この点でも足並みを揃え、人権の価値を強く打ち出すべきである。
9条改正および適用除外で人道的干渉の準備を整えよ
では、日本は国際世論を後押しすることまでしかできないのか。
確かに日本は憲法9条により、自衛のための最小限の武力行使しか認められないため、手足を縛られた状況にある。それが原因で、1991年の湾岸戦争の時は、金銭的支援で済ませた。しかし、それによって日本に対する厳しい批判の声が上がった。今回の主戦場はアジアである。当時以上に、非難の誹りを招くのは想像に難くない。
そもそも刑法上、自然権として認められている交戦権を憲法で否定すること自体が、論理矛盾である。
「専守防衛」を突き詰めれば、「座して自滅を待つ」ことになる(昭和31年の鳩山一郎首相答弁参考)。自然権として認められた権利を、憲法で放棄することなど本来できないはずである。その不条理さを俎上に載せて、憲法改正を目指すのは当然である。
同時に、憲法改正に時間を要するならば、大川総裁が提案されているように、憲法前文にある「平和を愛する諸国民」ではないと判断される国家に対しては、憲法9条は適用されないこともあり得るとし、集団的自衛権を行使し介入すべきである(『平和への決断』、『「現行日本国憲法」をどう考えるべきか』等参照)。
また日本国憲法前文には、こうある。
「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」
「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」
「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」
現在、台湾防衛においても、同盟国から「日本は何ができるのか」が問われている。平和安全法制の下では、重要影響事態に際し、米軍の「後方支援活動」においてのみ日本は台湾防衛を行うことができるとされているが、それを見直す機会ともなろう。それにより初めて、憲法前文の「名誉ある地位を占めたいと思う」という憲法の精神を体現できる国となるだろう。
このような憲法解釈に伴って、将来の我が国の軍拡化が危惧されるというのであれば、こうした政府見解は時限的なものであると併せて見解を出しておけばよい。
日本を取り巻く国際政治的環境を見定めて、例えば3年ごとに見解を見直すとしておけばよいのではないか。日本が「専制国家」ではなく、民主主義国家の「平和を愛する諸国民」に囲まれるとみなされるような状況になったら、適用除外を再検討するという形である。当然のことながら、その過程の中で、真正面から憲法改正の地固めをしておくのが重要であることは言うまでもない。
ミャンマー陥落をきっかけに、中国の傀儡政権が東南アジアに広がれば、南シナ海の権益が守れなくなる日も来る。台湾と共に東南アジア諸国は、日本と運命共同体である。そうでなくとも、戦後、日本のようになりたいと、経済的にも政治的にも日本の民主主義を仰いできた兄弟国である。その意味で、第一義的に彼らを護る責任は日本にある。
逆に、日本がアジアの民主主義を守ると決意を固めれば、日本の姿に感化され、欧米も介入を決めることもあろう。チャーチルが第二次大戦でアメリカの参戦を勝ち取ったのも、チャーチルの揺らがない決意があったからである。また、その時に初めて、日本は積極的平和主義を有言実行する、アジアの盟主としての地位を固めることができるだろう。
いま世界が日本に求めるのは、憲法9条を護持して、世界正義実現の努力を放棄するのではなく、正しいあるべき世界秩序づくりに貢献することである。
虐殺し、不正を犯す者に対して、傍観を決め込めば、より大胆に悪を犯すようになる。日本が「傍観」すれば、その悪事に加担するようなものであり、日本が他国から侵略の憂き目に遭った時に助けてくれる国など、出てくることはないだろう。
日本が「戦後」を卒業し、世界への愛を実現することこそが、今、世界から求められているように思う。
(長華子)
【関連書籍】
『習近平思考の今』
幸福の科学出版 大川隆法著
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