日本軍が南京攻略戦で中華門を爆破した様子(画像は1937年12月12日)。
日本政府が、貿易管理で優遇措置を受けられる「ホワイト国」のリストから韓国を除外し、韓国側は反発し、対立が続いている。背景には、徴用工問題をはじめとする歴史認識の相違がある。
戦後70年以上が経つ今も、日本国内の自虐史観が外交の足を引っぱることがある。本欄では、自虐史観を固定化させている原因の一つである「日中戦争」にフォーカスを当て、「日本軍は残虐だったか?」というテーマで歴史問題について考えてみたい。
本誌2015年3月号に掲載した、近現代史研究家の水間政憲氏のインタビューを再掲する(内容や肩書きなどは当時のもの)。
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近現代史研究家
水間政憲
(みずま・まさのり)1950年、北海道生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科中退。テレビ・新聞報道などで捏造されている近現代史について、一次資料を基に反証している。主な著書に、『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実』(徳間書店)、『ひと目でわかる「慰安婦問題」の真実』 (PHP研究所)などがある。
中国は2014年12月、南京攻略戦で亡くなった中国人のために、初の国家哀悼式典を行いました。共産主義を国是とし、「魂」の存在を認めていないにもかかわらず、反日のためなら慰霊祭を行うようです。
一方、日本軍はすでに1938年6月、南京で「日中戦没者共同慰霊祭」を執り行っています(画像(1))。中国各地でも、戦死した中国兵のための「慰霊碑」を建立していました(同(2))。
また、日本軍は人間だけに優しかったのではありません。戦死した軍犬に哀悼の意を表したり(同(3))、軍馬にも日傘をかけたりしてあげました(同(4))。軍馬と軍犬は、靖国神社内にある慰霊碑にも祀られ、人間と同じ扱いを受けています。
それほどまでに慰霊の精神を大事にするのは、日本軍の伝統です。日露戦争に勝利した乃木希典大将は、ロシア軍の戦没者の墓を建立した後に、日本軍将兵の墓を建立しました。その3年後には、日露両軍の慰霊祭を行っています。
もし、中国が歴史を反日の道具にしないのであれば、日本軍の伝統に習い、日中共同の慰霊をすべきではないでしょうか。
過去の判例よりも厳しい軍律
(1)1938年6月11日、中華民国維新政府と日本は、共同で慰霊大法会を行った。画像は、霊前(『支那事変画報』同年7月10日発行より)。
(2)1937年11月25日付朝日新聞では、日本軍が中国兵のために慰霊碑をつくっている様子が掲載された。その写真説明には、「抗日の世迷ひ言にのせられたとは言へ、敵兵もまた華と散ったのである。戦野に骸を横たヘて風雨に曝された彼等。が勇士達の目には大和魂の涙が浮ぶ。無名の敵戦士たちよ眠れ! 白木にすべる筆の運びも彼等を思へば暫し渋る優しき心の墓標だ」と書かれている。
(3)画像は、『アサヒグラフ』1937年10月27日号より。その写真説明には、「我が軍用犬のめざましい活躍ぶりはすでに幾度となく報ぜられているが、上海戦線における○○部隊の軍用犬ミッキー号は、淑県の巷にあって伝令任務中、不幸敵弾のために壮烈な戦死を遂げたので○○部隊長はその遺骨に向かって懇ろな弔意を表し忠犬の霊を慰めた」と書かれている(※戦争中のため、部隊名は○○として伏せられている)。
(4)馬には、雨風などを防ぐ菅笠がかぶせられていた(画像は、『支那事変画報』1938年6月18日発行より)。
(5)陸軍懲罰令(左)と陸軍刑法。陸軍刑法第89条(下)では、「戦地又は帝国軍の占領地に於て住民の財物を略奪したる者は一年以上の有期懲役に処す。前項の罪を犯すに当り婦女を強姦したるときは無期又は七年以上の懲役に処す」と定めている。
「日本軍は国際法に無知だった」と批判する人がいますが、それは当時の事情を知らない人です。
例えば、陸軍の兵士は、ポケットサイズの『陸軍刑法』『陸軍懲罰令』を肌身離さず身につけていました(画像(5))。この中には、捕虜への虐待や略奪は厳罰に処すとあります。これは、国際法を参考にしたものですが、違反した者は国際法よりも重い罪に問われます。
実はつい先日、私は裁判員裁判の裁判員として、強盗殺人事件を裁きました。その際、過去の判例の一覧を見ましたが、すべて陸軍懲罰令の処分よりも軽いものでした。日本軍の軍律が、いかに厳しいものであったかが分かります。
日本軍は厳しい軍紀を守った
特に、厳しく軍紀を守ろうとしたのが南京戦でした。南京攻略戦総司令官の松井石根大将は、国際法の権威である斎藤良衛(さいとう・りょうえ)博士を帯同させて、博士の意見を参考に「南京城攻略要領」を作成。外国権益や住民が避難した安全区、文化遺産などがある場所を地図に朱書し、最前線の小隊にも配布するなど、軍規を徹底的に守らせようとしました。
南京戦に参加した軍人から聞いた話ですが、ある兵士があまりにも寒かったので、誰もいない民家にあった綿の服をとって着ていたようです。すると、馬に乗った連隊長がそばを通りかかり、服について詰問しました。その兵士は罪を認め、懲罰房の重営倉(注)に送られました。
また、松井大将の意向をもとに、憲兵も日本軍を厳しく見張りました。それを象徴する話として、南京城に一番乗りで入城した脇坂次郎部隊長の東京裁判における宣誓口供書に、次のような証言があります。
「私の部隊が南京へ入った直後、ある主計中尉が公用外出の途中、支那婦人靴が片方遺棄してあるのを発見し、その美麗な刺繍を友人に見せるつもりで持ち帰ったところ、これを憲兵が探知して略奪罪の嫌疑で軍法会議に書類を送付しました。
その中尉は、私の面前で涙を流して自分の無罪を主張し、私もその事実を認め上司に伝えました。(中略)ともかく当時南京における日本憲兵の取り締まりは厳重をきわめ、いかに微細な犯罪も容赦しませんでした」
松井大将の意向や憲兵の存在により、日本軍の軍紀は高く維持されていたのです。
(注)日本陸軍の懲罰の一つで、1日以上30日以内の間、収用部屋に留置されること。
国民党軍幹部も認めた日本軍の軍紀の高さ
軍紀の高さは、中国・国民党軍の幹部も認めています。南京攻略戦当時、上海や南京などで通信連絡司令官を務めた洪懋祥(ホンマオシャン)中将の親戚から聞いた話ですが、洪氏は、「日本軍の軍紀は、世界の軍隊で一番厳しく徹底されていた」「アメリカもケネディ暗殺の真相を明らかにしていない。南京大虐殺の真相を明らかにすると漢民族の利益にならない」などと語っていました。
一方の国民党軍や共産党軍などの中国側は、残虐そのものです。軍事徴用という名の下に、民間人から略奪したり、労賃も払わずに使役したりすることが日常茶飯事。ほとんどの中国兵は文盲であり、国際法を知りません。その結果、中国軍の捕虜になった日本兵は、耳を削がれ、股を裂かれるなどの虐殺を受け、目も当てられない状態で発見されました。
これに胸を痛めた東條英機陸軍大臣は41年、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という軍人の行動規範を示しました。戦後、これによって自決者が増えたと歪曲されましたが、兵士に対する気遣いから出されたものでした。中国軍がいかに残虐であったかを物語っています。
情報戦に負けた戦中の日本
日本が日中戦争に引きずり込まれたのは、中国の情報戦に負けたからです。現在も情報戦に対する認識は甘いですが、それは戦中でも同じでした。朝鮮総督府が発行した月刊『朝鮮』1938年11月号には、次の文章があります。
「日本の宣伝下手と後手ばかり打つ事に対し、歯がゆさを感じた人は少なくなかった。然(しかし)し漸次(ぜんじ)支那側宣伝の虚偽が暴露され、日本側の公正なる立場が認識され出して、現在では情勢が変化して来たのは事実である。然し、これに依って情報宣伝が如何(いか)に戦時中重要であるかと言う事がはっきり経験させられたわけである」
現代を生きる我々は、中国の情報戦に負けたという戦中の過ちを繰り返してはなりません。
GHQ史観を焼き直す中韓
現在、中国・韓国は、GHQがつくった歴史観をもとに、ウソの歴史を作り出し、反日プロパガンダを続けています。ですから、大もとであるGHQの歴史観を洗い出さない限り、本当の歴史は見えてきません。
それは日本国内に対しても言えます。2014年、朝日新聞の誤報問題が注目されましたが、実は、私も朝日の報道姿勢を追及した記事を書いた同年夏に、朝日から社会面で名指しで批判され、広報を通じて「訴訟も辞さない」とクレームをつけられました。ですが私は、綿密に一次資料を調べ上げていたので、記事の内容には自信を持っていました。その後、朝日からは音沙汰なしです。
歴史を振り返っても、日本人は非常に民度が高い。幕末以降も、日清・日露戦争、第1次世界大戦でも、日本兵の精神性の高さが評価され、欧米諸国から一目置かれていました。戦後の自衛隊も同じです。
にもかかわらず、日中・太平洋戦争の期間だけは、突然残虐になったとされている。その考え方には論理的に無理があります。
昔も今も、日本の軍人は立派です。だから、日本への自信と誇りを持ってもらいたいです。(談)
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