《本記事のポイント》
- 縄文時代は「原始時代」ではなく「高度文明」だった
- 「都市」「海運ルート」「農耕」「養殖」
- 戦後の左翼史観が「縄文=原始的」のイメージを生んだ
「縄文ブーム」がじわじわと来ている。
東京国立博物館で7月、特別展「縄文―1万年の美の鼓動」が開催される。縄文時代の国宝が初めて一堂に会す機会として、注目を集めている。くしくも同月、ドキュメンタリー映画「縄文にハマる人々」も全国で順次公開される。
巷では、「土偶女子」などという言葉も耳にするようになった。編集部員にも最近、複数の識者から「実は最近、縄文時代に注目しているんです。実はすごい時代だったんじゃないかと……」という声が寄せられている。
縄文人は「原始人」か?
個人的なことを言わせてもらうと、学校の歴史の授業で、縄文時代ほどつまらない時代はなかった。
「竪穴式住居に住むが、狩猟生活を送るので、定住できず、動物の群れのように、家族などの小さな単位で暮らしている」「最新鋭の技術といえば、土に模様をつけて焼いた土器」
そんな、ほとんど原始人のようなイメージが、毛皮を着て矢尻を持つ縄文人のイラストと共に、頭に焼き付いている。
しかし近年、「縄文の日本はエジプトやシュメールなどと遜色ないレベルの文明だったのではないか」という声が出てきている。
東京ドーム7個分の「都市」に"4階建てビル"
「文明」という言葉を聞くと、とっさに「巨大な建築物や、そこを中心に広がる街」のビジョンを浮かべる人は多いだろう。その感覚は間違っていない。
「civilization(文明)」という言葉は、ラテン語の「civis(市民)」「civitas(都市)」に由来する。「文明と呼ぶ要件」の一つとしても、最初に「都市」が挙げられることが多い。
そうなると、定住さえできなかった縄文時代は、ほど遠いのか――。
そう思いきや、都市に匹敵する縄文遺跡が、1990年代に入って見つかっている。名前は知っている人が多いであろう、青森県・三内丸山遺跡だ。約5000年前のものといわれる同遺跡からは、知れば知るほど、驚くべき風景が浮かび上がってくる。
最も有名なのは、大型掘立構造物の存在だ。直径1メートルの栗材6本からなり、推定15メートルともいわれる。これは4階建てビルの高さだ。こんなものを、クレーンもない時代に組み上げたこと自体が驚異的だ。
「高さ」だけではない。細かなところに施された技術が、専門家を驚かせている。例えば、全ての柱を内側に2度ずつ傾けることで倒れにくくする「内転び」という建築技術が用いられている。さらに、柱がちょうど4.2メートルという完璧な等間隔に並んでいることから、「尺」が存在したことが分かってきた。
遺跡のすごさは、この構造物だけではない。
なんと東京ドーム7個分以上にあたる35ヘクタールの敷地に、計画的に配置された500以上もの住居が立っていたことが分かっているのだ。中には、幅32メートルという学校のプールよりも大きい大型住居や、共同の墓地などもあった。これは「集落」というより、限りなく「都市」に近い。
「海運ルート」「農耕」「養殖」まで……!?
「都市」を取り巻く「交易」も、かなり先進的だったことが分かっている。遺跡からは、600キロ以上離れた新潟産のヒスイ、長野や新潟産の黒曜石なども発掘された。つまり、日本海を通じた海運ルートがあったようなのだ。
するとそこから、さらに様々な技術の存在が類推される。例えば、日本海の大波の中を大量の荷物を載せて航海できる規模の船、海流に関する知識、天文学などだ。
「縄文時代は、農耕以前の段階」という通説を、揺るがす発見もある。三内丸山では、クリの栽培が行われたことが分かっている。
そもそも各地の縄文遺跡からは、稲作の痕跡も見つかっている。陸稲のみならず、「天水田」という、水溜りのような地形を利用した水田も確認されている。
さらに東京都北区の貝塚からは、「牡蠣の養殖」を行っていた形跡まで見つかっている。
こうした縄文日本の「都市」やそれを取り巻く「技術」「営み」は、多くの日本人が抱くイメージとは大きくかけはなれている。まさに、「文明がそこにあった」と言うに足る風景があったのだ。
宗教・芸術にも精力的
「文明」の条件としては、「都市」以外にもこんなものがある。
「狭い意味では、人力をもっていたずらに人間の需要を増し、衣食住の虚飾を多くする」
「広い意味では、衣食住の安楽のみならず、智を研き、徳を修めて、人間高尚の地位に昇る」
これは福沢諭吉による文明の定義だ。簡単に言えば、「単なる衣食住を超え、何か知的なものや精神的なものを求めている」ということ。
その視点で見れば、上記の大型掘立構造物が神殿だと言われていることに注目できる。衣食住を超えた精神活動のために、最も高度な知識や技術をつぎ込んでいるのだ。
さらに教科書に出てくる火焔型土器や様々な土偶の造形も、高度に精神的活動である「芸術」に他ならない。
上に紹介したヒスイも、装飾品だ。この硬い石に紐を通す穴を空けるのが、また大変な技術を要するという。「なぜ縄文人に可能だったのか」と、まるでオーパーツ扱いをされたこともあった。当時の人々は、美の追求のためにそれだけの技術をつぎ込んだのである。
こうしたことから、「縄文時代を文明と見なさない通説は間違いだ」という意見は多い。「『世界四大文明』に日本の縄文を入れて、『世界五大文明』と呼ぶべき」との声まであるほどだ。
戦後の左翼史観が「縄文=原始的」のイメージを生んだ
しかし、こうした驚くべき可能性を持っている縄文時代に、なぜ原始的な時代かのようなイメージがつきまとっているのか。
大きな理由は、戦後の考古学にある。
そもそも「縄文時代」という時代区分は、先の大戦以前にはほとんど聞かれなかった。敗戦後、日本の神話や皇国史観に"偏りすぎた"歴史観を見直す流れの中で、「縄文・弥生」という区分名称が使われるようになったのだ。
というのも、これらの用語は「日本は劣った狩猟生活をしていたが(縄文)、大陸から稲作が持ち込まれ高度な農耕社会が生まれた(弥生)」という歴史観を反映しているのだ。
例えば、「縄文・弥生」という区分名称が普及する大きなきっかけになったとされる『日本の考古学』(1966年)には、次のような記述がある。
「弥生時代は、ながく停滞的な採集経済の段階にあった縄文時代の日本民族が、大陸の農耕文化の促進的な影響をうけて稲作を中心とする生産経済にうつり、米を主食とする日本人のその後をきりひらいた時代である」
つまり「縄文=原始的」というイメージの背景には、「皇国史観」を敵視し、「日本より大陸の方が進んでいる」という自虐史観があるのだ。
しかし、「すでに縄文時代において前日本に日本語系統の言語が広く流布していた」(言語学者・服部四郎)、「日本語は縄文文化とともに始まった」(言語学者・小泉保)といった指摘もあるように、この時代に、日本人のルーツの一端がある以上、その時代の姿について曖昧にはしておけない。
「縄文ブーム」の奥には、そんな隠されたルーツを求める心理も働いているのだろう。
【参考書籍】
志村史夫『古代日本の超技術』(ブルーバックス)、西尾幹二『国民の歴史』(文春文庫)、山田 康弘『つくられた縄文時代―日本文化の原像を探る―』(新潮選書)ほか
(馬場光太郎)
2018年1月4日付本欄 日本、神社、天皇……そのルーツは1万年以上も古い
https://the-liberty.com/article/13983/
2017年3月号 「大分・宮崎」神話は空想じゃない - 霊査で明かされた3000年前の風景