「加計学園」獣医学部の校舎建設現場を視察する釈量子・幸福実現党党首。
《本記事のポイント》
- 加計学園の地元で『認可が確定していないのに、建物を建てるのが早すぎる』との声
- 申請前に着工しなければ認可されないという不条理は知られていない
- 憲法で保障されているはずの「学問の自由」を守るべき
「加計学園」問題に関する報道を見ると、「官邸が悪いのか、文科省が悪いのか」ばかりが議論されている。
しかし、問題の本質は、もっと奥にある。
釈量子・幸福実現党党首は編集部の取材に対し、「そもそもの『大学・学部設置のシステムそのものの不条理さ』に切り込むメディアは少ない」と指摘する。
「建物を建てるのが早すぎる」!?
同氏は「切り込まれていないシステムの不条理」の一例として、今治市にある同学園獣医学部の校舎建設現場を視察した時のことについて挙げる。
「海が一望できる美しい丘の上に、鉄筋の骨組みが建ち並び、建設業者の皆様が、玉の汗を流して働いていらっしゃいました。
そこで驚いたのは、近所では『認可が確定していないのに、建物を建てるのが早すぎる』という声が出ているという話。ちょうどその場に、マスコミ関係者の方も来ていましたが、同じく、先に建物が建っていることに疑問を感じておられました。
しかし実は、『大学や学部の設置認可を受けるには、先に校舎を建て始めないといけない』システムになっているのです。ここの不条理を、多くの国民は知らされていません」
先に着工しないと審査に間に合わない
「先に校舎を建て始めないといけない」とはどういうことか。
例えば文科省の省令である「大学設置基準」では、「校地は、教育にふさわしい環境をもち、校舎の敷地には、学生が休息その他に利用するのに適当な空地を有するものとする」とある。そして、「校長室」「会議室」「図書館」などの必要な施設から、校地・校舎の面積まで、細かく指定がされている。
つまり、「設置基準」を満たしているか審査する段階では、土地や建物をある程度揃えておく必要がある。
この矛盾について、釈氏はこう指摘する。
「建築の世界の常識として、大学規模の建物建設には工事だけで1年2ヶ月ほどかかります。認可申請するよりも前に、土地を手に入れ、着工しなければ間に合わないのです。しかし、莫大な投資をした上で校舎が建ち始めてから、不認可にされるリスクも当然あります。
幸福実現党と同じく、幸福の科学グループを母体とする、幸福の科学学園は2014年、『幸福の科学大学』の設置認可を文科省に申請しましたが、グループの言論活動が、当時の文科相の私怨を買ったようで、『不認可』という判断が下されました。その審査に先立ち、建物だけで百数十億円の先行投資を行っていましたが、その損害について、文科省は一切責任を負いませんでした」
「まちづくり」プロジェクトも台無しに!?
学園敷地付近には、「商業系施設用地」と書かれた看板も。
「加計学園」獣医学部設置は、長年進められてきた、今治市の「新都市開発構想」と一体になったプロジェクトでもあった。
釈氏は、現地の様子をこう語る。
「獣医学部にの敷地周辺には、『しまなみヒルズ』と言われる住宅団地や、丘陵公園も整備されています。後は、大学と、その学生を待つのみです。校舎建設現場の横には、『商業系施設用地』と書かれた看板があり、企業立地も推進されていました。地域の方々は、さぞ期待していることでしょう。
大学や学部を設置するとなれば、地域の行政や地元住民とも歩調を合わせて準備する必要がありますが、最後の最後に不認可になれば、こうした構想も、ついえてしまうのです」
「需給見通し」や「首相との縁故」で「学問の自由」が左右される!?
校舎を建てさせておいてから不認可にしたり、地域の期待や構想を反故にすることもできる――。よくよく考えれば、これはかなり強力な権限だ。
こうした権限には、いったいどのような法的根拠があるのか。
「大学・学部の設置には、文科省の認可が要る」というのは「学校基本法」という法律で定められている。そして、その認可で使われる「設置基準」は、法律より下位の存在であり、大臣が発令する省令だ。
しかし、これらの大学を縛る法令は、あくまで「例外」に過ぎない。日本の最高法規である憲法において、「学問の自由」が保障されているからだ。
憲法で保障されているはずの権利が、法律にも省令にも書かれていない、「獣医の需要見通し」や「獣医学会の要請」、あるいは「首相との交友関係が深いかどうか」によって侵害されている状況は極めて異常だ。
「加計学園」問題では、「官邸と文科省が対立している」ように報じられているが、言ってしまえば、「首相の利権」と「文科省の利権」がぶつかっているだけにも見える。本来、「学問の自由」の範囲にあるはずのものを簡単にコントロールする発想は、官邸も文科省も変わらない。
「加計学園」問題を機に「政府が、民間の自由を縛って当然」という発想そのものを、見直す必要があるのではないか。
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