数々の勇気と感動を与えてくれたリオデジャネイロ・パラリンピックが18日に閉会式を迎えたが、今回のパラリンピックでは、「安楽死」のあり方も話題になった。

陸上女子400メートルで銀メダルを獲得したベルギーのマリーケ・フェルフート選手が「大会後に安楽死をするつもり」であるという「誤報」が流れ、SNSなどで多くの人がコメントし、一時騒然となった。フェルフート氏は筋力が次第に衰える進行性の脊髄の病気を患っており、持続的な痛みや発作、足の麻痺に襲われているという。

影響の大きさからフェルフート選手は記者会見を開き、次のように語った。

「安楽死の書類は用意してありますが、その時はまだ来ていない」「私はまだメダリストとして、生きることを楽しみたい。20年には観客として日本に行きたい」

フェルフート選手は2008年に安楽死の許可証を取得しているが、「安楽死の可能性が、ここまで続ける勇気をくれた」「安楽死を『殺人』と考えるべきではない」と言っている。「安楽死は、休息の感覚をもたらしてくれます。『もう十分』と思った時には(安楽死の手続きに必要な)書類がある、と思える」(12日付BBCニュース電子版)

人間の生きる意味とは何か

安楽死の是非に関しては、様々に議論されている。「日本でも認めるべきだ」とする意見もあれば、「過剰な延命措置をしない『尊厳死』は認めるべきだが、安楽死は認めるべきでない」という意見もある。

この議論は、社会のルールとして認めるか認めないかという問題だけで済むものではない。人間とは何かという宗教的な問いに関わってくる。

人間の本質は魂であり、この世の人生が終わっても永遠に生き続ける存在である。地上での人生は魂の学びを深めるためのものであり、人間は何度もこの世に生まれては、新たな経験を得ている。障害や重度の病気などの大きな課題は、自分自身の魂をより輝かせるためのこともあれば、高次な使命からくることもある。

このことを理解せず、「障害や病気を持って生まれることは苦しみであり、早く死ぬことが幸福である」という考えが本人や周囲にあれば、人生の目的と使命に反している。逆に、「とにかく死ぬことは不幸である」としてこの世の生命の維持ばかりを求めることも幸福にはつながらない。

霊的な人生観があってこそ、「死」をどう迎えるかの答えが出る。そして、この世でも、そしてあの世でも幸福な生き方が可能になる。(片)

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