公開霊言抜粋レポート
ヘーゲルの霊言 思想革命で価値観を逆転させよ
公開霊言「ヘーゲルに聞いてみた」
2014年12月5日収録
西洋哲学史上、最も壮大な思想をつくった人物は誰か? この問いへの1、2位を争う回答として、ゲオルグ・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルの名前が挙がるのは間違いないだろう。ヘーゲルは19世紀前半にドイツで著作活動をし、カント、フィヒテ、シェリングと続いた「ドイツ観念論」を大成させた哲学者として知られている。
幸福の科学の大川隆法総裁は、この哲学者ヘーゲルの霊を招霊。ざっくばらんに質問をぶつけることで、その個性や考え方の筋を探った。霊言では、学問の本質、政治思想のヒント、現代日本へのアドバイスなどが語られたが、ある意味でヘーゲルの“人間味"も味わえる内容となった。
ヘーゲルの生前の哲学とは
ヘーゲルは、古代ギリシャのアリストテレスにも比肩される、史上最大の体系家の一人だ。彼の哲学には、論理学、自然科学、法学、経済学、政治学、宗教学、美学、歴史学など、当時のあらゆる学問ジャンルが詰まっている。主著の一つに『エンチュクロペディー』(百科事典)というものがあるが、その名の通り、一人で百科事典を書いてしまったかのような印象がある。
精確さを多少犠牲にして、ヘーゲル哲学の大枠だけを述べると次のようになるだろう。絶対者である神は「論理」として抽象的に存在していると同時に、現象化して「自然」としても存在する。さらに自然の一部である人間に「精神」活動をさせ、それが歴史の中で、法律、政治制度、芸術、宗教、学問を生んでゆく。喩えるなら、論理が神の「骨格」、自然は神の「肉体」、人類の精神活動が神の「心」の表現ということになるだろうか。
彼の哲学は同時代に大きな影響を与えたが、やがて、カール・マルクスがそれを換骨奪胎して唯物的に解釈。そのマルクス主義が圧倒的に強くなったことから、ヘーゲルは神を語る反動的な思想家というレッテルを貼られるようになった。そのため、毀誉褒貶の多い哲学者であり、難解な文章で書かれていることもあって、ヘーゲルの全体像や真意は現代人には伝わりにくくなっている。
霊言では、生前の思想の繰り返しになることを避けるため、現代の諸問題について質問したが、それに対する回答は、ある意味で難解なヘーゲル哲学を“逆照射"し、分かりやすくするものとなっている。
科学万能主義は「バカ」
霊言ではまず「宗教と学問」「宗教と科学」の関係が問われた。10月、設置申請をしていた「幸福の科学大学」が文科省の判断によって不認可となったが、その理由を述べた文書には「霊言には科学的合理性がなく、それに基づく教育は認められない」という趣旨の内容が書かれていた。幸福の科学大学は霊言を根拠にして教育するとは言っておらず、この文章自体が悪質な印象操作だが、そもそも「科学的合理性がない学問は教育してはいけない」のだろうか?
これについてヘーゲルの霊は 「『科学で分かるもの以外は学問ではない』なんて、もう、バカとしか思いようがない」「文科省の役人、精神病院に入った方がいいよ」 と吐き捨て、その判断を一刀両断した。さらに、学問の序列について 「宗教、神学、哲学があって、その下に他の実用性のある学問があって、そのさらに下に科学がある」 と語り、下のものを使って上のものをチェックしているとして文科省を批判した。
生前のヘーゲル哲学においても、「自然」は「精神」よりも下位の存在であり、自然科学も人文系の諸学問よりも下位に置かれていた。科学に対する見方には異論もあるだろうが、ヘーゲルの考えは生前も死後も一貫しているようだ。ヘーゲルは、矛盾を克服しながらダイナミックに変動する人間活動をとらえる学問の方が、自然科学よりも高度な認識力が必要だと考えていた。科学的手法を過大評価する現代とは価値観が正反対だ。
ヘーゲルの霊は、学問の本質について聞かれ、「(人間が) 肉体を中心に生きている者であるか、そうでないかということの〈踏み絵〉が学問だと思う 」と語り、学問をしていない者は肉体的生存を中心に物事を考えるようになり、学問をした者は高尚な考え方を求めるようになると指摘した。学ぶ者の精神を向上させると考えている点で、儒学や陽明学など、徳目を重視する東洋的な学問観と大きくは違わないことが分かる。確かに、『精神現象学』をはじめとするヘーゲルの著作は、人間の精神がどこまでも高まってゆく過程を描いたものであった。
ヘーゲル哲学はもはや「ガラクタ」?
実は、霊言に先立って行われた大川総裁の事前解説では、生前のヘーゲル哲学について「現代的に見れば、もうガラクタとしか言いようがない」「(ヘーゲルなどの観念論も)行きすぎると妄想の世界に入ります」と批判する一幕があった。