墓参りしやすい場所へ墓を引っ越したいと考え、「改葬」を行う際に、寺に「離檀料」という高額の料金を請求され、トラブルになる例が増えていることを、28日付産経新聞が取り上げている。

記事では、都市部で暮らす子供が、地方の実家近くの墓を生活圏に近い納骨堂に移そうとする際、墓を管理する寺の住職から「離檀料を600万円払ってほしい」と言われた例が紹介されている。この「離檀料」について住職は、「寺は毎日のように供養してきた」からと説明したという。

同記事では「離檀料」に伴うトラブルについて、静岡県の曹洞宗の僧侶がこのように解説する。「(墓を移す際は)昔であれば自然に布施を置いていく感覚があったが、寺と檀家との関係が薄れてしまったため、阿吽の呼吸がなくなってきた」

なんとも悲しい事態だが、そもそも寺に納める布施は、信仰の現れとして仏に捧げるものであり、何かに対する対価ではない。紹介されている例では、「供養」という宗教行為が、まるで物を買うことと同じように、経済原理の中に組み込まれてしまっている。

さらに、葬儀についても宗教的な意味が骨抜きになりつつある。16日付朝日新聞は、高額な葬儀費用に疑問を持ち、安価な葬儀を実現しようと活動している僧侶にインタビューをしている。そのなかで、この僧侶は葬儀の意味について次のように答えている。「故人は亡くなるまでの年月を精一杯生きた。そのことへの敬意を限られた時間で表し、心にちゃんとしまい込む場。これがお葬式です」

しかし、葬儀の一番の目的は、故人の魂をあの世へ旅立たせること、つまり引導を渡すことである。残された遺族を慰めたり、故人の思い出を心にしまい込むだけなら、僧侶がいなくてもできる。

仏教系の大学のなかには、仏教の「無我」の教えを「死んだら我が無くなる」と解釈し、魂はないと教えているところもあるが、これでは形を変えた唯物論にすぎない。僧侶が「仏陀への信仰」や「死後の魂の行方」など、目に見えないものについて説けなければ、本来の仕事を放棄していると言わざるを得ないだろう。

仏陀は、正しい修行をすればすべての人が悟りを得られ、天国に行くことができると説いている。仏教は本来「魂を救う」教えなのだ。魂を救うことができない現代の仏教は、イノベーションが必要な時期に来ている。(晴)

【関連書籍】

幸福の科学出版 『忍耐の法』大川隆法著

http://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=1070

【関連記事】

2014年2月号記事 唯物論者たちの回心.2 -千日回峰の大阿闍梨が語る現代人の「救い」とは? 【ガチンコ対談】 光永覚道 日本天台宗大阿闍梨 × 綾織次郎 本誌編集長

http://the-liberty.com/article.php?item_id=7096

2013年12月16日付本欄 大川総裁が天台宗の大阿闍梨に引導を渡す 故人を諭す仏陀の威神力

http://the-liberty.com/article.php?item_id=7074