21日付夕刊各紙はオウム真理教の全公判が終わったことを報じ、オウムを総括的に論じている。本サイトも宗教メディアとして一言いっておきたい。

今月30日発売の「ザ・リバティ」1月号は新宗教に対する日本人のイメージを特集しており、オウムについてもふれている。「宗教は基本的におかしいものだ」という十把一絡げのイメージを、オウムが日本人の間にウイルスのように広めた責任は計り知れない。

だが、マスコミが伝えない事実がある。1995年2月、オウムによる「假谷さん拉致事件」が起きたとき、偶然それを目撃して警察に通報したのは幸福の科学の職員だった。その後、幸福の科学の信者は全国でオウム糾弾デモを展開。これによって警察の捜査が本格化し、地下鉄サリン事件に関するオウム施設の強制捜査につながった。

あのとき幸福の科学が行動を起こさなければ捜査が遅れ、日本中がオウムにやられた可能性がある。幸福の科学は「オウムと一緒」ではなく「オウムから日本を守った宗教」なのだ(本誌1月号参照)。「宗教は全部一緒」的な情緒的反応を日本人はすべきでない。

もう一つオウムが傷つけたものがある。21日付毎日新聞夕刊は1面に「絶対的存在求める危うさ」と題した論説を載せ、その結論部分で「自分の頭で考えることにこだわらないと『真理』などといった一見魅力的なキャッチコピーに踊らされかねない。(中略)オウム事件はなお重い課題を私たちに突きつけている」としている。こうした例が示すように、宗教や哲学が求めてきた「真理」のイメージもオウムによって少なからず汚された。

読者は、真理はあるかないか、どちらの立場に立つだろうか。一定年齢以上の日本人の間には「そんなことは分からない。正しさは人それぞれ」という戦後民主主義的な価値相対主義が広く見られるが、それは価値判断からの逃避に過ぎない。オウムという経験を通じて日本人が向き合うべき真の課題とは、今こそ「真理の存在」を逃げずに問うことであるはずだ。(司)

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