宗教は国家の介入を避け、道徳の源泉たる信仰心を守っている
小説家、エッセイストの中村うさぎ氏が、『週刊現代』7月9日号で「宗教法人、税金払ってよ」という記事を掲載している。
記事中、中村氏は、宗教法人・幸福の科学と書面でのやり取りがあったことを紹介し、宗教法人非課税についての同教団のスタンスを説明されたことを明らかにした。その上で、それでもまだ納得しがたいとして、自身の考えを披露している。
『週刊新潮』等の扇動的な記事とは違い、相手方の論点を踏まえた批判になっているが、その結論の中には誤解に基づくものもあると思われるので、その点を以下で指摘してみたい。
課税権力の介入は、宗教行為の妨害
第一点としては、宗教的弾圧の意味を知っていただきたい。幸福の科学が「宗教活動に課税することは、宗教を国家の監視下に置くことを意味し、宗教弾圧であり、信教の自由に反する」と主張しているのに対し、中村氏は「その理屈だと、税金を納めている人はみな弾圧されていることになる」と反論している。
しかし、中村氏自身、「区役所やら税務署やらと税の徴収をめぐるバトルを繰り広げてきた」と言っている。中村氏はこれを弾圧ではないと言うが、弾圧が顕在化するかどうかは、ケースバイケースだというに過ぎない。現に、1990年代、アメリカの内国歳入庁(国税庁に相当)が、時のクリントン政権に批判的な宗教団体ばかりを狙い撃ちにして免税権を剥奪していたとして、上下両院あげての大騒ぎになったことがある。課税を前提とする以上、当局による「介入」「威嚇」「弾圧」に曝されるリスクは常にあるのだ。
しかし、こうした介入が宗教にとって致命的なのは、単に金を取られたり、脅されたりするからではない。もっと本質的なことは、世俗権力の介入によって神聖な宗教行為が妨害されるということである。
課税などによる世俗の介入は、宗教的には「穢れ」である。現実として、この穢れが混じると宗教修行は困難になる。宗教の教団や施設は「結界」という一種の霊的なオーラで護られており、その霊的磁場の中でこそ、瞑想修行や降霊などの宗教行為が可能となるが、世俗の穢れはこの結界を破ってしまうのだ。寺社や修道院などが人里離れた場所に建てられるのも、世俗の穢れを避けるためである。街中にある場合は、十分な境内地や鎮守の森などが確保されることが多い。
これが伝統的に「聖」と「俗」が区別されてきた理由であり、だからこそ、後に述べるように、憲法や各種の法律、税制もこれに配慮しているのだ。
宗教家や僧職者にも所得税がかかっている
したがって、宗教団体の特殊な性質と地位に留意して、国家による介入を禁じる「信教の自由」、そして(正しく解釈された)「政教分離」の原則を尊重する限り、宗教の非課税措置を講ずるのは当然だと言える。
信教の自由は、重要かつ古典的な人権として普遍的に認められているので、中村氏にしてもこれを否定することはないと信じたい。信教の自由は、国家法によっても侵せない基本的な自然法であり、国家を超える性格を持っている。
要するに、宗教は世俗権力の支配下には服さない存在、少なくとも世俗の勝手な介入を許さない存在なのである。それは世俗側の法律でも確認されている。宗教法人法第84条では、国などが税金関連の法律を制定・運用する際には「宗教法人の宗教上の特性及び慣習を尊重し、信教の自由を妨げることがないように特に留意しなければならない」として、課税権力が介入することを戒めている。それ以外にも、刑法、教育基本法、建築基準法、国税徴収法などにおいて、宗教の尊重を旨とした各種の法律が存在する。
誤解されていることもあるが、宗教家、僧職者、宗教法人の職員に対しても、個人としては所得税がかかっている。出版事業についても非課税ではない(ただ、これらは本来のあり方ではない)。しかし、宗教法人が行う宗教活動に対する課税は認められないということだ。医療法人などは政府から補助金を受けているが、宗教法人は非課税である代わりに補助金を受けることもせず、あくまで国からの独立を守っているのだ。
宗教による霊的救済は公益事業
第二点として指摘したいのは、宗教活動と営利事業との区別を曖昧にしてはならないということだ。幸福の科学の「宗教活動には課税の対象となる所得(利益配当を目的とした剰余金)が存在しない」との説明に対し、中村氏は、宗教活動といってもお守り代や拝観料など「値段がついている」以上、対価性がないとは言えないとし、純粋な喜捨行為かどうかを区別するのは難しいのだから「いっそのこと、カネが支払われたらすべて営利行為であるということにして課税すればいい」と主張している。
しかし、学校法人を初め、利益配当を目的としない公益団体は他にもたくさんある。中村氏によるなら、こうした団体にも金銭の移動がある以上、課税すべきということになる。これは、税法、宗教法人法、学校法人法、社会福祉法、NPO法など、現行法の根本的な見直しにつながる〝大胆な〟主張だが、それを正当化するだけの理由があるとは思えない。
宗教活動について言えば、その本質は霊的救済という公益事業である。宗教的活動に対して信者が布施をするとしても、それは断じて宗教団体の営利活動ではない。もちろん、無用な混乱を避け、信者が安心して布施できるよう、「目安」を掲げることはある。しかし、布施をする側と受ける側の気持ちが純粋でなければ布施は成立しない。目安が掲げられていることが対価性の証明ではないのだ。布施は信者にとって、どれだけ神仏に対して純粋な感謝を捧げられるかという宗教修行でもある。これを「対価性がある」と政府が認定すること自体、神仏や信者の宗教行為を冒瀆するものだ。
歴史上、世界の多くの宗教では、布施は極めて重要な宗教行為(功徳を積む行為)と認識されてきた。そうである以上、これを単なる商行為のように見なして課税対象にするのは、先ほどの結界を破る行為であり、まさしく宗教的迫害に当たる。
中村氏は記事の冒頭で、某宗教に数珠を売りつけられたことを告白している。確かに、その詐欺まがいのやり方はそれこそ布施の精神を冒瀆するものであり言語道断だが、そうした事例を一般化して、宗教的布施そのものに疑いの目を向けることには問題がある。もちろん、悪い宗教もあるが、善悪の問題は宗教間の切磋琢磨、競争に委ねられている。国家が一律に判定できることではない。
日本が北朝鮮化しないことを願う
本誌で何度も指摘している通り、宗教非課税措置は世界的に行われている。宗教には、国家も立ち入ることのできない権威が普遍的に認められているのだ。宗教は、国家の介入を避けつつ、道徳の源泉たる信仰心を守るものだからだ。宗教の自由のない国のほとんどが全体主義国家であることは偶然ではない。宗教軽視が嵩じて、日本が北朝鮮化しないことを願いたいものだ。
特に、アメリカ独立のきっかけとなった「ティーパーティー事件」を見ても分かるように、税金というのは、国が一つできてしまうくらいの大変な問題だ。それを当たり前のように宗教に課そうとする態度は、決してまともなものではない。
中村氏は記事の中で、「心を救う」という点においては、精神科医も、占い師も、フーゾク嬢も、宗教と変わらないとして一緒くたにしているが、やはり不見識の謗りを免れないだろう。中村氏は〝数珠売り宗教〟のイメージが強いせいか、世界的に確立している宗教の地位というものを見誤っているのではないか。これでは、数千年にわたって人類に霊的救済をもたらしてきた仏陀もイエス・キリストも、フーゾク嬢と変わらないことになってしまう。
なお、東日本大震災の復興のために宗教法人も貢献せよ、という中村氏の主張だが、数万という人が亡くなった大災害において最も大切なことは、犠牲者一人ひとりが安らかに天国に旅立てるよう導くことである。
それこそが宗教がなし得る最大の貢献であり、政府にも、企業にも、ボランティア団体にもなし得ないことだ。どうか、未だに地上で迷っている方々に対する救済活動を後押しする方向で考えてもらいたい。こうした宗教活動は、今の政権がやっていることに比べたら、はるかに価値が高く、尊いことだと本誌は考える。