聴力を失うという、音楽家にとって最大の試練に直面したベートーヴェン(1770~1827年)。
本誌2026年1月号「ベートーヴェンと『インドの悟り』、そして『造物主』への祈り」では、その試練を乗り越えて「至高神」への賛歌を伝えた、楽聖(がくせい)の知られざる一面に迫った。
Web記事では2回にわたり、本誌では掘り下げ切れなかった、ベートーヴェンの心の旅路に焦点を当ててみたい。今回は、その前編。
決闘のように演奏の腕前を競い合うライバルたちに、難聴を知られてはいけなかった
現代を生きる我々にとって、ベートーヴェンが直面した「難聴」という試練が、音楽家にとってどれほど致命的だったか、という点については、なかなか理解しがたいだろう。
中央ヨーロッパを神聖ローマ帝国が統治していた時代と現代ではまったく環境が異なり、当時はそもそも「音楽家」という職業が確立していなかった。
これまで本誌・本欄でも紹介したが、ベートーヴェンよりも十数年前に生まれた神童・モーツァルト(1756~91年)は、「音楽家」という職業の確立に挑戦した先駆者だった。当時、音楽を仕事にしていた人たちは、「貴族の僕(しもべ)」という立場に留まる人が大半だったのだ。
ベートーヴェンは21歳の終わり頃にウィーンを訪れ、作曲を学び、ピアノの名手として貴族の間で高い評判を勝ち取る。当時、二人のピアニストが公開の場で即興演奏の腕前を決闘のように競う行事が頻繁に開催され、そこで勝ち続けたベートーヴェンは新進気鋭のピアニストとして注目された。
そのため、27歳頃に難聴が始まったベートーヴェンは、それが深刻化し、この行事に参加できなくなることを危惧した。苦しんだあげく30歳の頃に親友に送った手紙にはこう書かれている。
「僕は自分が聾です、とはとても人には言えない。だからこの2年来、すべての社交というものはほとんど避けてきた」「僕の仕事では、これは恐ろしい事態だ。僕には少なからざる敵がいるが、彼らがこれを知ったら何と言うだろう!」(小松雄一郎編訳『ベートーヴェンの手紙』上 岩波文庫)
ライバルはベートーヴェンを敵と認識し、敗者は恨みを抱く。そのため、噂が広まることを恐れ、ウィーンでは誰にも難聴だとは明かせない。仲の良い医師にだけ知らせ、治療を依頼するも、効き目はなかった。孤独の中に追い込まれ、自殺を考えるほど思い詰めていった。






















