中国は、すでに不動産バブルが崩壊していると指摘されており、思想や経済などさまざまな統制を嫌って海外に脱出する人が増えている。

2024年8月号の本誌記事「中国革命前夜──第二の『孫文』が現れる日」では、富裕層や知識人の海外に流出が加速し、日本の東京の書店などにも多くの知識人が集まっている現状を伝えた。

本欄では、日本の財界人に支援され、辛亥革命を起こした孫文(1866~1925年)が目指した革命の理想、そして、今後、日本がどのような思想を中国の人々に伝えていかなければならないのか、という点について考えてみたい。

革命を志した孫文たちは、日本で多くのことを学んだ

革命を志した孫文は、1895年の広州起義(武装蜂起)、1900年の恵州起義に失敗した後、日本に逃れ、近代国家の仕組みを学び、自由民権運動の有力者と交流する。

1905年に中国同盟会を結成した時、「はじめて、革命の大業が自分の生涯のうちに成就するであろうことを信じるに至った」と述べている(舛添要一『孫文』)。

革命後の中華民国において、最初に制定された国家基本法である『臨時約法』を作った宋教仁(そう・きょうじん)は、革命前に、孫文同様、日本に渡り、早稲田大学の予科で法律を学んだ。孫文の後を継いだ蒋介石も、革命成就前に日本に留学し、東京につくられた中国(清)からの留学生向けの軍学校「振武学校」などで軍事を学んでいる。

日本で結成された中国同盟会の初代メンバー963人のうち860人が、留学生や在日中国人であった。そして、1911年4月に広州で起きた、清朝に対する武装蜂起「黄花崗起義(こうかこうきぎ)」では、犠牲になった「七十二烈士」のうち、7人が日本に留学していた。同年の武昌蜂起に呼応した昆明重九起義(こんめいちょうきゅうきぎ)では、40人の犠牲者のうち、31人に日本留学の経験があった。

彼らの多くは、当時、日本で翻訳された啓蒙思想に触れ、近代国家のあり方を学んだ。そして、自由と民主主義の意味を知ったからこそ、彼らは革命に命を懸けた。日本は、近代化・民主化を願う中国人にとっては、未来が垣間見える文明の実験地であったとも言える。彼らが起こした辛亥革命は、明治維新を手本にしていたのである。

明治維新は「中途半端な革命」であった

しかし、本誌2024年5月号の特集「明治維新のやり直し」で詳述したように、明治維新はある程度の近代化には成功したものの、「精神的主柱」を立てることには失敗した。

富国強兵に成功し、自由民権運動から議会開設、大正デモクラシーに至るまでの歴史を通して、普通選挙も実現した。

だが、明治政府は、廃仏毀釈を行い、仏教伝来以前の古神道に回帰し、天皇を中心とする「国家神道」を強化してゆく。ただ、日本神道には造物主信仰がなく、土着の民族神信仰でしかない。そのため、人間の尊厳が神の被造物であることに由来する、という根本の真理に基づいた近代国家を建設できなかった。

つまり、近代国家の基盤となる「宗教理念」が存在せず、そのために「中途半端な革命」になってしまったのである。

また、日本神道には「教え」がなく、天皇中心の国づくりを進めたため、釈尊が説いた「慈悲」やキリストが説いた「愛」のような、人類普遍の教えに根差した「国家理念」も成立しなかった。