2023年6月号記事
行基菩薩の「妖怪封印」 ~大仏建立の霊的背景~
大川隆法・幸福の科学総裁は書き下ろし箴言集『妖怪にならないための言葉』において、大仏建立で有名な行基菩薩にまつわる驚くべき霊的な真実を明かしている──。
2月に発刊された『妖怪にならないための言葉』。この箴言集では、東大寺の大仏建立を推し進め、国分寺の建立に協力した行基菩薩の「本体は、如来の霊格を持っているものと思われる」偉大な魂であり、「仏教僧の手本を見せることにより、日本霊界で神々を名乗っていた物部系の豪族神を、裏側の妖怪世界に封印した一人ではないかと推定される」と言及されている。
悟りを求め、衆生を救済した行基の活動は、当時の日本をどのように揺さぶり、霊界にまで影響を与えたのだろうか。
行基菩薩の修行時代
行基は天智7年(668年)、大島郡(大阪府堺市と高石市を含む)に住む渡来人系の家に生まれ、15歳で出家した。24歳で受戒し比丘(*1)となる。その後、14年ほど、月の半分は奈良の飛鳥寺(法興寺)で経典を学び、残りの半分は山林で瞑想する生活を続けた。
飛鳥寺は崇仏派の蘇我馬子が聖徳太子とともに廃仏派の物部氏打倒を祈願したことがきっかけで建てられた寺院であり、そこには日本最古の仏像である飛鳥大仏が鎮座する。
飛鳥寺では唐の国で玄奘から唯識の教え(*2)を学んだ道昭が禅定や教学を指導していた。道昭は各地で十数年も土木事業を進め、救済行にも熱心だった。行基は、悟りを求めつつ慈悲を実践した道昭の感化を受ける。
(*1)成人した男性の出家者。女性は「比丘尼」。
(*2)唯識は「心がすべてで、それ以外のものは本質ではない」「思いがあるからこそ、認識ができ、認識があるからこそ、世界はありうる」と説く仏教の一派。
山林修行から衆生救済へ
また、行基が受戒した高宮寺は金剛山の中腹にあった。この山には修験道の開祖である役小角がおり、行基も同時代に修行していた。しかし、行基は年を経るにつれ、山での独り修行は衆生への慈悲を欠いており、独善的だと考えるようになった。
釈尊を理想としていた行基は、民とともに生きる道を模索し始める。37歳ごろに山を降りて郷里に戻り、40歳の時に生駒山の東麓(生馬仙房)に移った。
修行をしながら寺院を建てる日々の中で、行基は、郷里と新都(平城京)を結ぶ峠道をゆく民の姿を目の当たりにする。
朝廷に納める貢ぎ物を背負って都に向かう民は疲労困憊し、都での労役を終えても帰郷できぬ者が続出していた。そうした民からは、新都での苦役や食糧が尽きて行き倒れになる者の実情を聞いた。
「仏教僧の手本」を示した行基
地方から伝道の烽火をあげる
聖武天皇の帰依と大仏建立
物部系の豪族神を裏側の妖怪世界に封印