デビューから60年以上が経過した現在でも、世界中で愛されているビートルズ。

本誌・本欄では、ジョン・レノンがイエス・キリストの魂の一部であり、ポール・マッカートニーの過去世がイエスの弟子・パウロであったという霊的真実を伝えた。

今回は、ギター担当のジョージ・ハリスンが持っていた音楽への一途な情熱をたどってみたい。

大人気の中、ジョージの発案でインドへの瞑想旅行に旅立つ

ビートルズのメンバーは、1960年代の大ブームの中で、意外と冷めた自己評価をしている。

1966年の来日時に、ポールは記者会見の席で、「僕らは、そんなに優れたミュージシャンではないし、優れたミュージシャンだと言ったこともない。そこそこだけど、そんなに優れているわけじゃないよ」と述べていた。

レノンも、後年、当時の心境を次のように振り返っている。

「その現実に自惚れないように努めていたし、かなり上手くやっていた。頭がイカれることもなかったし、テングになることもなかった。でも、いつでも『ああ、そうだな、有名になるのは素敵だ、リッチになるのも素敵だ。でも、一体何のためにやっているんだ?』という感覚がつきまとっていた」

そうした感覚があったため、レノンは、「もっと大事なものがあるはずだ」という想いに駆られ、1968年に、仲間を連れてインドへの瞑想旅行に旅立つ。

この旅行のアイデアは、インド音楽が好きだったジョージと、瞑想に関心を持っていたその妻パティ・ボイドから出てきたものだった。

弦楽器シタールに惹かれたジョージは代表するシタール奏者に出会う

子供の頃から自宅のラジオでインド音楽を聴いていたジョージはインドへの関心が強く、ビートルズブーム真っ盛りのころに、インドの弦楽器であるシタールの奏法を身につけたいと考えていた。

1965年4月、映画「Help!」のレストランのシーンを撮影している時に、ジョージは、店内でインド人ミュージシャンが奏でる生のシタールを聞くと、自分でそれを奏で、音色に心を動かされた。その後、友人から、ラヴィ・シャンカールというインドを代表するシタール奏者の名前を何度か聞くと、シャンカールに会いたいと強く思うようになった。

1966年、ロンドンで開かれたパーティーで、ジョージら4人はシャンカールと巡り会う。

ジョージが、その席で「シタールの奏法を教えてください」とお願いすると、シャンカールは、その決意の真贋を見極めようとした。

「君はギターでスターになったが、シタールはギターとは違う。口伝されるもので、教則本のようなものはない。何年も修業をしなくてはならない」

「最善をつくします」

シャンカールはジョージの熱意を認めると、訪英中に演奏の手ほどきをした。

だが、シタールは世界の楽器の中では極めて難易度が高く、長時間抱えて演奏していると脊椎を痛めたり、指から出血したりする。本気でなければ奏者になれる見込みはなかった。

そのため、シャンカールは、別れる前に、ジョージに「本当に身につけたいなら、インドに来なさい」と伝えていた。

異国の文化を学び、音楽の新境地を求めていく

ジョージはその後、インドを訪問する。

1966年9月、妻とともにプライベートでインドを6週間ほど訪問。シャンカールに案内されてインドの名所や聖地を巡り、文化と宗教について理解を深めた。この頃に、2週間ほど、一対一で演奏の指導を受けている。

1968年には、レノンらとともにヒマラヤで瞑想修行を行った。

当時、ビートルズの面倒を見ていた男性の一人は、ジョージは真剣に努力し、世界に轟くような音楽をつくろうとしていたとも述懐している。

世界的なヒットを飛ばしていたロックバンドのギタリストが、新たな楽器を一から学び直し、異国の文化を学び、音楽の新境地を求めていく。

ジョージは68年以降もインドを愛し、シタール演奏や瞑想について理解を深めていった。

ジョージは、「インドへの愛は僕の人生の中で、ほかの何者を差し置いてでも、守りたいものだった」とも述べている。

こうした、成功の中で先人に学び、新境地を求めていく姿勢を見ると、「テングになることもなかった」というレノンの言葉に偽りがないことが分かる。ビートルズのメンバーは、「アーティストとしての実力と世界的な知名度は別物だ」と考えていたのだろう。

この交流を通して、ジョージとシャンカールとの間には年齢や人種を超えた師弟関係が生まれた。生涯を通し、ジョージはシャンカールを父のように尊敬し、シャンカールはジョージを息子のように愛していた。

「音楽を通じて、世界を一つにしようと思っていた」

こうしたジョージの愛は、インドの人々の心にも届いていたようだ。

ビートルズの音楽が1963年以降、ラジオでインドに流れるようになると、ビートルズの音楽が流行り、ビートルズをまねたバンドも非常に増えていった。インドにはイギリスによる植民地支配をめぐる怨恨が根深く残っていたが、ジョージの愛は、それを和らげる一助となった。

当時、イギリスの音楽家でインド音楽を評価する人は稀だったので、両国の怨恨の歴史を顧みると、ビートルズがインドを訪れ、インド文化に敬意を払ったことにも、大きな意味があったと言える。

レノンは霊言において、世界的に音楽が広がった時の影響力をこう語っている。

私らは、『音楽を通じて、世界を一つにしよう』と思ってたんだけどね。特に私はそう思ってたんだけど、音楽も広がってくると『政治性を持ってくる』んだよな。政治的になってくるし、権力はないんだけど、ある種の権威っていうか、『インフルエンス』だよな。『影響力』を持つようになってくるので」(『ジョン・レノンの霊言』)

レノンらは、その影響力をもって、戦後の世界を音楽で癒そうとした。

戦後の復興を考えて生まれたのは生まれたんだけどね。戦後のイギリスを勇気づけることを考えていたんだけどね。戦争で荒れ果てたヨーロッパや、その他の世界を、「音楽で癒やしたい」と思って、出たところはあるんだけどなあ」(『ジョン・レノンの霊言』)

ジョージが抱いたインドへの愛の中にも、その一端が現れているのかもしれない。

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