2021年9月号記事

戦後76年 special image gravure 最後の日本風景

(1) 戦艦大和を見送った"桜の花道"

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豊後水道を南下する戦艦大和とその護衛艦艇を見送る、大分の河津桜(画像は編集部作成)。写真:アフロ

「沈みに行くのだ」と、誰もが分かっていた。1945年4月5日、戦艦大和に最後の出撃命令が下る。沖縄を救うため、いや、救えないかもしれないが、見捨てなかったと知ってもらうため、世界一の巨大戦艦が護衛機もなく、翌日、徳山沖から出発した。

九州と四国の間を下るころ、日が沈もうとしていた。赤く染まる両岸に見えたのは、それはきれいな桜。花と散る男たちを見送るのが、花道だったとは。これが本土の最後の風景。夜になり、再び辺りが明るくなるころ、彼らはもう大海の上にいる。

日没時刻、甲板に集合がかかった。乗組員はその風景を目に焼き付けようと駆けつける。桜で飾られた海岸に目を凝らすと、人々が出てきて、「万歳! 万歳!」と叫びながら、手を振っていた。

甲板に嗚咽が溢れる時、何のいたずらか、近くはない陸から桜の花びらが飛んできて、乗組員らの上に舞い落ちたという。


(2) 特攻隊を見送った"富士"の雄姿

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鹿屋や知覧などから飛び立った特攻機は、鹿児島県・開聞岳(薩摩富士)横から東シナ海に向かった(画像は編集部作成)。写真:アフロ

飛行機が地面を離れる瞬間、「もうこの大地を踏むことはできない」という思いがこみ上げた。奇跡的に生還した元特攻隊員がそんなことを語っている。

大きな声援で見送られても、空の上ではひとり。レーダーに捉えられぬよう低空飛行する特攻機からは、慣れ親しんだ山や川、人々が生活を営む畑、家々がよく見えた。隊員たちの心には、生まれてからのさまざまな思い出がよぎったことだろう。

特攻隊員の多くは、最初は「男子たるもの」と志願を考え始める。しかし最後に決断させるのは「これで家族を守れるのなら」という思いだったという。

陸から海に飛び出せば、もう二度と、本土の風景は見られない。その時、多くの特攻機を見送ったのは、薩摩富士だった。彼らは何度も何度も、何度も何度も何度も後ろを振り返り、今から護ろうとする日本の姿を、その目に焼き付けたという。