梅屋庄吉像(画像はwikipediaより)。

時代の大きな転換点で誕生する数多くの英雄とドラマは、多くの人々を魅了し続ける。その中で、今回焦点を当てるのは「資金面で革命を支えた事業家たち」のドラマだ。驚くほど情熱的で無私な彼らの活動が、新しい時代を切り開いた(2014年2月号記事より再掲)。

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1840年のアヘン戦争以降、満州族の王朝である清朝は、イギリスをはじめとする欧米列強に不平等条約を結ばされ、様々な権益を奪われ、中国大陸は植民地状態になっていった。国政は汚職の蔓延や内乱の頻発で、まさに内憂外患であった。

そうした中、清朝を倒して国を立て直そうとしたのが、孫文である。三民主義に代表されるように、孫文は中国大陸に民主主義国家を樹立することを目指し、1911年に「辛亥革命」を起こした。

実は、この革命と日本との関係は深い。孫文は日本の明治維新を手本にし、辛亥革命を「明治維新の第二歩」と語っていた。

その孫文を支え続けたのも日本人だった。現在の映画製作配給会社「日活」の創始者・梅屋庄吉である。

人種差別に「はらわたが煮えくり返る思い」

庄吉は1869年に長崎の商人の家に生まれた。近所には三菱の創業者となる岩崎弥太郎が住んでおり、背中におぶって遊んでもらったこともあるようだ。庄吉は生来、正義感が強く、14歳のころ、街の人々を困らせていた長崎の悪党グループに決闘を挑み、降参させたエピソードが残っている。

庄吉の人生を方向づける出来事が起こったのは19歳のときだ。留学のために乗ったアメリカ行きの船(注)で、白人の船員が、コレラにかかった3人の中国人を生きたまま袋に入れ、海に投げ捨てるところを目撃した。後に、「やつらはアジア人を人間と考えていない。はらわたが煮えくり返る思いだった」と振り返っている。

過酷な人種差別を目の当たりした庄吉の正義感は、その後思いがけないきっかけから、中国大陸での革命を支える情熱へと変化していく。

(注)庄吉はアメリカ留学をしようとしたが、行きの船が火災で沈没し、かなわなかった。しかし、2人の生存者のうちの1人として、奇跡的に日本に生還した

「君は兵を挙げたまえ我は財を挙げて支援す」

庄吉が香港で写真館を開いていた95年、知人からある男性を紹介された。革命家・孫文である。当時、孫文は「香港興中会」を結成し、革命資金を集めていた。

2人は別室で長時間話し込み、庄吉は孫文の「東洋の興隆、人類の平等」という考えに共鳴。それを実現するためには、中国大陸で革命を起こすことが必要だと確認し合った。

「君は兵を挙げたまえ我は財を挙げて支援す」──。

庄吉は孫文にそう告げ、革命を成就させるために事業家としての人生を差し出すことを約束したのだ。

孫文が計画する武力蜂起に向けて、庄吉は必死で物資や武器をかき集め、多額の資金も提供した。しかし、最初の広州蜂起は密告によって頓挫し、孫文は日本に亡命。清朝政府は孫文のクビに多額の懸賞金をかけ、その追手は庄吉にも及んだ。

ある時庄吉は、清朝の官憲が自分を逮捕しようと迫っていることを察知する。庄吉は急いで荷造りをして写真館を抜け出し、香港からシンガポールに脱出した。

庄吉は、すべての商売道具を捨てて逃げたため、新たに写真館を開くことはできず、途方に暮れていた。しかし、荷物の中に映画フィルムを入れていたことに気づき、試しにシンガポールの街中に即席劇場をつくって上映した。すると、上映するたびに会場が満員になった。

天の計らいとでも言うべきか、革命に身を投じた庄吉は、写真館という商売を失ったものの、より大きな資金を生み出す映画事業に転身した。

「映画界の風雲児」、巨額の利益を革命資金に

その後、庄吉は事業を本格化するために、日本で「Mパテー商会」を設立し、映画の製作や上映を全国的に行った。

上映会の開催を広く知ってもらうために、馬車立ての音楽隊でPRしたり、切り抜きを持っていけば鑑賞料が半額になる新聞広告を出すなど、当時としては斬新な手法で話題を呼んだ。

映画の内容は、サンフランシスコ大地震の様子や、密かに撮影した伊藤博文の非公開の国葬など貴重な映像もあり、観客の心をわしづかみにした。Mパテー商会は急成長し、庄吉は「映画界の風雲児」と呼ばれる。

庄吉は蓄えた利益を、武器・弾薬の調達、機関誌の発行、革命家とその家族へのサポートなどに注ぎ込んだ。その額は現在の価値にして1兆円から2兆円にのぼると言われる。

一方、孫文は幾度となく武装蜂起をするが失敗。多くの盟友が失望し離れていったが、庄吉は「如何なる時変あるも親友の間には最後なし」(『永代日記』)と語り、信念は揺らがなかった。

富や貴さは財産や名声でなく人の心の中にある

庄吉が孫文と盟約を交わしてから16年経った1911年、待ちに待ったその日が訪れる。

庄吉のもとに孫文から「ブソウホウキセイコウ」という電報が届いた。孫文は中国内陸の武昌での武装蜂起で勝利し、現地に革命政府を樹立した。

これを機に革命の火は一気に広がり、24省のうち14省が清朝政府からの独立を宣言。秦の始皇帝から2千年続いた皇帝政治が終わりを告げ、孫文は中華民国の初代臨時大総統に就任した。

13年、孫文は大総統として日本を訪問し、庄吉のもとを訪れる。このとき、庄吉は密かに中国に撮影団を送って製作していた、一連の革命の映像を孫文にプレゼントした。資金集めに奔走していたため、その様子を見ていなかった孫文は感激し、その映像を何度も観たという。資金面でも精神面でも、庄吉は孫文を支え続けたのだった。

34年にその生涯を閉じた庄吉は、こんな遺言を遺した。

「われ中国革命に関して成せるは、孫文との盟約にて成せるなり。これに関係する日記、手紙など一切口外してはならず」

親族がこの遺言を守り続けたために、近年まで、庄吉の功績が広く知られることはなかった。

そんな庄吉が大切にしていた言葉に、「富貴在心」というものがある。「富や貴さというのは財産や名声ではなく、その人の心の中にある」という意味だ。庄吉は、事業家人生で得た資金の多くを革命に注ぎ続け、手元に残ったのはわずかだった。

しかしすべての人が、人種差別や抑圧のない自由な体制下で暮らせる国を中国大陸につくることを目指した庄吉の心は、真の意味で「富貴」に満ちている。

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