仁徳天皇陵古墳の上空から、大阪湾を望む写真提供:ピクスタ
2020年10月号記事
地域シリーズ
堺から、世界へ。
今から約1700年前の日本で、空前絶後の大減税が行われた─。
日本の繁栄は、堺なしには語れない。
(編集部 飯田知世)
2019年7月、大阪府堺市、羽曳野市、藤井寺市にある49基の「百舌鳥・古市古墳群」がユネスコ世界文化遺産へ登録された。中でも注目を集めたのが、堺市にある仁徳天皇陵古墳。日本最大の前方後円墳だ。
仁徳天皇には、有名な逸話「民のかまどの煙」がある。
即位から3年が経ったころ、仁徳天皇は、高殿に登って四方を見渡した。すると、民の家から炊煙が立ち上っていないことに気づいた。
「これは、五穀が実らず、百姓が窮乏しているのだ。都の内ですらこの様子だから、都の外の遠い国ではどうであろうか」
その約1カ月後、天皇は詔を出した。
「今後3年間、すべての課税をやめ、民の苦しみを柔らげよう」
この日から天皇は、御衣や履物を破れるまで使い、食べ物は腐らなければ捨てず、つつましやかに過ごし民の負担を減らした。さらに、宮殿の垣は壊れても直さず、屋根の茅は崩れても葺かず……。それは、雨風で御衣を濡らし、室内から星影が見られるほどだった。
3年後、天皇が高殿に登って一望すると、民の家から盛んに炊煙が立ち上っていた。臣下は天皇にこう奏請した。
「課役が免除されてもう3年になります。宮殿は壊れ、倉は空になりました。今、民は豊かになって、道に落ちているものも拾いません。連れ合いに先立たれた人々もなく、家には蓄えができました。こんな時に税をお払いして、宮殿を修理しなかったら、天の罰を被るでしょう」
しかしそれでも、天皇は首を縦に振らなかった。
天皇が課役を再開されたのは、その3年後。民は促されずとも、老いも幼きも昼夜を分けず力を尽くし、宮殿は瞬く間に再建された。民は仁徳天皇の御代を称え、「聖帝」と呼んだのである─。
千葉商科大学大学院教授 吉田 寛氏インタビュー
堺のすごさはパイオニア精神
仁徳天皇が減税時に貫いた姿勢とは