バチカンのシスティーナ礼拝堂を原寸大に立体再現した「システィーナ・ホール」(2018年7月撮影)。

《本記事のポイント》

  • 米津玄師さんの歌唱で大塚国際美術館が話題に
  • 美術館の始まりは、「一握りの砂」だった
  • 故郷への恩返しの思いが、2000年残る仕事を生んだ

徳島県の美術館が、にわかに注目を集めている。

昨年末に放送された「紅白歌合戦」で、シンガー・ソングライターとして活躍する米津玄師さんが、テレビで初めて生の歌声を披露した。その生中継の舞台となったのが、故郷・徳島県鳴門市にある大塚国際美術館だ。同美術館が誇る、バチカンのシスティーナ礼拝堂を原寸大に立体再現した「システィーナ・ホール」が無数のキャンドルに照らし出され、視聴者の感動を呼んだ。

日本国内にいながらシスティーナ礼拝堂を体感できる、唯一無二の美術館――。どのような経緯で創設に至ったのか。

大塚グループ2代目社長・大塚正士氏の下で設立に尽力した田中秋筰(しゅうさく)氏に、美術館に込められた思いを聞いた(18年9月号の再掲記事)。


大塚 正士

プロフィール

(おおつか・まさひと) 1916~2000年。徳島県鳴門市生まれ。1947年、父・武三郎の経営する大製薬工場の代表を継ぐ。同社を法人化し、社長に就任。点滴輸液の製造・販売を軸に事業を多角展開させ、日本を代表する大塚グループの基礎を築いた。

オロナイン軟膏、オロナミンC、ボンカレー、ポカリスエット、カロリーメイト―。

数々のロングヒット商品を生み、社員17人から2万人を超える大企業に成長させたのが、大塚製薬を中核とする大塚グループの2代目社長・大塚正士氏だ。

多くの新規事業を手がけたが、晩年、超ロングヒットとも言うべき「2000年残る仕事」に取り組んだ。グループ創立75周年記念事業の「大塚国際美術館」の設立である。同美術館は、徳島随一の観光スポット「鳴門の渦潮」を眼下に望む大鳴門橋から車で約5分の国立鳴門公園内に建つ。大きな陶器の板に、原画に忠実な色や大きさで作品を再現する、世界で類を見ない陶板名画美術館。原寸大で再現された1000余点の絵画が、世界26カ国190余りの美術館などから許可を得て集められた、唯一無二の美術館である。

立地にこだわった理由

1980年代、美術館の計画が持ち上がったが、その後のバブル崩壊で、グループの台所事情も苦しくなった。しかし正士氏は、他に予定していた大阪本社ビルの改築などの周年事業をあきらめ、美術館一本に絞った。それはこの事業の目的が、グループが発祥し、成長した徳島、鳴門への「恩返し」だったからである。

当時、本州と兵庫県の淡路島を結ぶ明石海峡大橋の建設が進み、その延長上の淡路島と徳島県鳴門市を結ぶ大鳴門橋がつながる予定だった。地元の人々は「橋の開通で経済が潤う」と期待。だが正士氏は違った。

正士氏の右腕として美術館建設に尽力した同美術館常務理事の田中秋筰氏は、こう語る。

「社主はよく、『明石海峡大橋から"大きな虎"が渡ってきて、みな持って行かれるわ』と言っていました。『素通りさせないためにも、鳴門に人を留める"ダム"を造る。そうすれば徳島に人やお金が集まる』と」

こだわったのは立地。「渦潮の近くに建てないとあかん」――。

そこに大きな問題が立ちはだかる。正士氏が目指した建設地は、渦潮が見える場所から歩いて行ける、瀬戸内海国立公園の一部の鳴門公園の一角。大塚グループ、鳴門市、徳島県がチームを組み、環境庁(当時)や文化庁に許認可を求めた。

「調査に訪れた文化庁の人には、『誰から何と言われようと、この話は実現しない。名勝である鳴門の地に美術館を建てるなんて何を考えているのか』と憤慨され、話が進みませんでした」(田中氏)

焦る田中氏に、正士氏は「許可が下りるまでやるんじゃ」と譲らない。田中氏は、「僕らはサラリーマン根性で『難しいだろう』と考えていた。できると思っていたのは社主だけではないでしょうか。でも社主の強い思いに、いつの間にか引っ張られていきました」と当時を振り返る。

関係機関への許認可申請に5年の歳月をかけ、ようやく工事が着工。関係者の協力を得て2年9カ月という短期間で完成させ、1998年3月にオープン。明石海峡大橋が開通したのは、その2週間後だった。

〈右〉レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」に触れる田中常務理事。同美術館の作品には、優しく触れることができる。
〈左上〉複数の陶板を組み合わせ、一つの作品に仕上げる(写真提供:大オーミ陶業株式会社)。
〈左下〉地下3階、地上2階の大国際美術館は、日本最大級の常設展示スペースを誇る。

タイル事業から陶板美術館へ

年間38万人もの来館者が訪れる理由は、作品へのこだわりにある。完成までに、原画の色の分析、陶板への転写、焼成などの工程を経る。焼いた後の縮み具合も緻密に計算し、釉薬の調合技術によって2万色もの複雑な色味を表現できる。陶板は退色劣化せず、2000年残ると言われている。

「陶板の始まりは、『一握りの砂』でした」(田中氏)

1971年、末弟の大塚正富氏(現アース製薬特別顧問)とその部下が、鳴門海峡の白い砂を机に盛り、「この砂でタイルをつくれば価値の高い商品になる」と新規事業の立ち上げを提案。正士氏は承諾した。

短期間で高度な技術を得た。1m角のタイルをつくる際、最先端のアメリカでも20枚中19枚が割れる時代に、20枚中20枚すべてを商品化できた。1m×3m、厚さ2cmの歪みのない大型陶板の技術も得た。高みを目指し、73年、信楽焼で有名な滋賀県の陶器会社と大塚が合弁して「大塚オーミ陶業」を立ち上げた。

しかしその直後、オイルショックが日本を襲う。ビルなどに使われるタイルの需要が激減。苦肉の策として、陶板に絵を描く美術品への移行を決めた。

その後、正士氏が顔写真を焼き付ける「肖像陶板」を考案。全身像は1枚1000万円という高額品のため、松下幸之助など日本を代表する経営者のほか、ヨルダンの国王やサウジアラビアの石油相などへのトップセールスで国内外を飛び回った。

「社主にはこの事業から撤退する気はありませんでした。陶板技術への絶対的な自信と、一度手がけたものは売れるまで売るという信念があった」(田中氏)

変遷を辿ったタイル事業は、やがて美術館設立へと昇華される。

「父の作品が未来永劫残る」

1つの作品の完成までに長いものでは数年かかる。だがさらに骨が折れるのは、原画の所有者に複製の許可を得る仕事だ。

「現代絵画のピカソ、シャガール、ミロ。この3つはなかなか承諾を得られませんでした。著作権を持つ子孫たちの興味は金額ではなく、陶板作品の出来栄えでした」(田中氏)

ピカソの息子クロード氏は、「レプリカはだめ」と拒絶。しかし、正士氏から「ピカソやシャガールは横綱や。横綱がいない番付なんかあるか。美術館建設の意義をしっかり伝えれば分かる!」と号令。大塚オーミ陶業の担当者がフランスに飛び、クロード氏に面会を求め、陶板にしたピカソの自画像を見せた。

「素晴らしい出来栄えだ、と驚いていたそうです。その後来日し、滋賀の工場にも訪れ、『これで父の作品が未来永劫残る』と感動し、許可してくれたんです。一度に15作品も。門外不出のゲルニカまで」(田中氏)

今では大塚オーミ陶業には、かつて美術館の建設を渋っていた文化庁から、奈良のキトラ古墳や高松塚古墳の壁画の複製を依頼され、中国の敦煌やタイの寺院から壁画の修復の依頼も舞い込んでいる。田中氏は、正士氏の思いをこう語る。

「社主は常にこう言っていました。『単なる金儲けをやっていたらあかん。人が幸せになるようなことをせんと絶対にあかん。そうせんと大きくならん』」

2000年残る陶板芸術。その原点には一人の経営者の強い信念があった。

〈上〉モネによる大作「大睡蓮」は、退色劣化しない特性を生かし、自然光の下で観ることができる。
〈右下〉レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた「最後の晩餐」は、修復前と修復後を見比べることができる。写真は修復後のもの。
〈左下〉古代イタリアのポンペイで発掘された壁画「秘儀の間」。独特の赤の色合いが忠実に再現されている。

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