大東亜戦争後、イギリスがインド国民軍を裁こうとした戦犯裁判の舞台となった、インド・デリーのレッドフォート。この裁判がインド独立の引き金になった。
平成最後の「終戦の日」となった。本欄では英霊に感謝を捧げるべく、過去に掲載した「英霊列伝」を再掲する。
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F機関長当時の藤原少佐。
1942年2月、シンガポール・ファラパーク広場で、英印軍のインド兵捕虜5万人を前に、演説する藤原少佐(右から3人目)。
「技術を持たない藤原はF機関の工作を『魂だけでやった』と話していた」と語る冨澤暉さん。
1942年2月、日本軍によるシンガポール陥落の翌々日、ファラパークに集められた英印軍のインド兵捕虜約5万人は、F機関長(注1)・藤原岩市少佐(最終階級は中佐、戦後陸将)のスピーチに歓喜した。
「日本軍は、インド兵諸君が祖国解放のために忠誠を誓い、インド国民軍への参加を希望するならば、捕虜の扱いを止め、諸君の闘争の自由を認め、全面的支援を与える」(注2)
これに応じた1万数千人は後のインド独立運動の中核となった。
なぜ多くのインド人の心をとらえたのか。元陸上幕僚長で東洋学園大学理事・名誉教授の冨澤暉さん(77歳)は義父の藤原少佐について、こう振り返る。
「藤原は戦後、『我々がインド人を奮起させたというより、乳飲み子がミルクを欲しがるように、彼らが欲している独立を与えようとしただけだ』と語っていました」
(注1) 大東亜戦争中、イギリス軍のインド兵引き抜きなどの任務にあたった諜報機関。F機関のFは、「フレンドシップ、フリーダム、フジワラ」の頭文字をとったもので、プリタムシン氏が命名。
(注2) 藤原岩市著『F機関』。
自由と幸福のためにインド国民軍を創設
インドは約150年間、イギリスに植民地支配されていた。重税に加え、イギリス人が儲けるために商品作物を強制的に作らされたため、食糧が不足して、度重なる大飢饉で約3千万人が亡くなるなどした。
そうした人種差別が常態化していた中、日本はアジア解放を目指し、独立を求めるインドの活動家を支援。その担当者として、41年9月、藤原少佐が選ばれた。諜報の専門家ではなく、英語もヒンズー語もできない藤原少佐だったが、それでも腹を決め、与えられた数人の部下を前にこう訓示した。
「日本の戦いは住民と捕虜を真に自由にし、幸福にし、また民族の念願を達成する正義の戦いであることを感得させ、共鳴を得るのでなくてはならぬ」(同)
日米開戦の直前、タイに赴いた藤原少佐は、細い人脈をたどりながらインド独立派のプリタムシン氏らと地道に接触を重ねる。開戦と同時に、英印軍の中からインド兵数百人の引き抜きに成功。41年末、藤原少佐の呼びかけで、インド将兵のモハンシン大尉を代表とするインド国民軍が立ち上がる。
イギリスと違って人種差別をしない藤原少佐らは、インド兵と食事を共にし、インド人リーダーにインド兵を統率させたりした。ある時には、藤原少佐が車で移動中、投降したばかりのインド兵捕虜にもたれかかって眠り始め、あまりの警戒心のなさに、インド人からあきれられたという。
チャンドラ・ボースと並び称される藤原少佐
42年4月、インド国民軍が膨れ上がったため、F機関は発展的に解消。岩畔機関に引き継がれ、藤原少佐は南方総軍司令部に異動となる。
だが同12月、モハンシン大尉がインド国民軍の役職を解かれ、インド兵が動揺して軍が瓦解する危険性が生じた。それを察知した藤原少佐は、モハンシン大尉から「自重してほしい」という言葉を引き出し、インド将兵に伝え、軍の瓦解を防いだ。このとき、結果次第では自決してでも軍を守ろうと覚悟を決め、身辺整理を済ませ、部下に爪や髪を託していた。
「戦後、藤原は、諜報の技術や知恵が足りなかったことを反省していました。しかし、諜報で最も大事なのは、相手の『意図』を知ること。ファラパークスピーチでも分かるように、藤原は心の底から相手のことを考え、互いの目的を一つにして、無駄な争いをなくした。身内びいきになりますが、藤原には現代にも通じる最高のインテリジェンスがあったと思います」
日本敗戦後の47年8月、インドはイギリスから独立を果たした。「インド独立の父」チャンドラ・ボースと並び、「インド独立の母」と呼ばれる藤原少佐の生涯を、現代の多くの日本人は知らない。
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