米軍の防御陣地(トーチカ)が残るアメリカ領のミッドウェー島。写真:USFWS-Paclflc Reglon

平成最後の「終戦の日」となった。本欄では英霊に感謝を捧げるべく、過去に掲載した「英霊列伝」を再掲する。

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飛龍の模型を手にしながら語る宗敏さん。

1103人が乗員した空母「飛龍」。

もし日本があの戦いに勝っていたら、アメリカとの形勢は変わっていたかもしれない──。

今でも"歴史のif"として語り草になるのは、1942年6月、ハワイと日本の中間で繰り広げられたミッドウェー海戦だ。大東亜戦争の天王山にもなったこの戦いで、日本海軍は空母4隻を失う大敗北を喫した。

戦後、「この人が指揮すれば勝てた」と言われるのが、空母「飛龍」に乗り、米空母を沈めた山口多聞・海軍少将(最終階級は中将)。その三男である宗敏さん(82歳)は現在、神奈川県で暮らしている。

無敵だった日本海軍

閑静な住宅街にある宗敏さんの自宅には、連合艦隊司令長官の山本五十六から贈られた「清寂養和」(注1)という揮毫が飾られている。宗敏さんはそれを指さして、「父は山本さんと仲が良かった」と振り返る。

山本長官と山口少将と言えば、41年12月のハワイの真珠湾攻撃に触れない訳にはいかない。

開戦前、山本長官は大東亜戦争を早期に終えて日本を勝利させるため、航空機による米艦隊の撃滅を計画。これをもとに、山口少将は全長200メートルを超える空母「飛龍」「蒼龍」などを指揮する第二航空戦隊の司令官として、鹿児島の鹿屋基地で航空部隊の猛訓練を行った。

「昼夜を問わない訓練が続き、パイロットは基地近くの居酒屋で、"山口似"の店主に向かって、『人殺しの多聞丸』などと愚痴を浴びせたと聞きます。これを耳にした父は『明日の訓練はもっと厳しくするぞ』と笑っていたようです」(宗敏さん)

しかしこのおかげで、真珠湾攻撃は成功。その後、山口少将率いる空母部隊はイギリスの東洋艦隊も撃破するなど、世界一の技術力を誇る日本の航空部隊を前に、英米軍はなす術がなかった。

作戦後、山口少将は忙しさの合間を縫って東京の自宅に戻った。妻の孝子さんは、夫の伸びた髪を切る際、白髪が多くなったことに気づいた。家族の前では冗談ばかりを飛ばす山口少将だったが、ミッドウェーに向かう直前、孝子さんに「今回が最後だよ」と伝えていた。家族に宛てた遺書には、「御国の為に喜んで死にます」と記されていた。

(注1) 静かな環境は、和らかな気を養う、の意。

泣きながら酒を飲む叔父

日本はミッドウェー海戦で負けた。その敗因は決断力にある。

日本海軍は米飛行場があるミッドウェー島を爆撃途中、米空母部隊を発見した。直ちに山口少将は、空母への攻撃を進言するが、南雲忠一中将は先に飛び立った攻撃部隊の燃料切れを心配し、部隊の収容を優先させた。ところがその途中で、米航空機の攻撃を受けたため、一瞬で空母3隻を失った。

残った飛龍を指揮する山口少将は米空母に反撃。3隻のうち「ヨークタウン」1隻を大破(戦闘不能)させ、一矢を報いた。しかし飛龍も攻撃を受け、山口少将は総員に退艦を命令。艦と運命を共にした山口少将は、6月6日午前6時6分、海中に沈んだ。彼は最期に何を思ったのだろうか。

「戦後の人は、日本兵が皆『天皇陛下、万歳!』と叫んで死んだイメージを持っています。だけど、それだけではありません。彼らは家族や国のことも思いながら、死んでいった。うちの父もそうでしょう」(宗敏さん)

当時、山口少将の死は身近な大人たちだけに知らされ、小学生だった宗敏さんには知らされなかった。だがある時、泣きながらビールを飲む叔父を不思議に思い、宗敏さんは「何で泣いているの?」と尋ねた。「うまいからだよ……」としぼり出すように答えた叔父。「本当は父の死を知ったからでしょう」と宗敏さんは振り返る。

山口少将から宗敏さんに宛てた手紙には、軍人になれとあるのではなく、ただ「御国の為に役立つ人間になれ」と書かれていた。先の大戦で散った英霊たちは、今の日本人に何を思うか。

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