幸福の科学大学「不可答申」

下村文科相の「信教・学問の自由」違反を糺す

2015年開学を目指していた幸福の科学大学は、文部科学省の大学設置・学校法人審議会から開学を「不可」と判定されたことを受け、設置不認可の処分を行った下村博文・文科相に対し、11月7日、異議申立を行った。「霊言が根底にある教育課程は大学教育において認められない」とする今回の答申内容は、憲法で保障されている「信教の自由」「学問の自由」などの精神を著しく侵害するものであり、下村大臣に「不認可」判定を撤回し、同大学の設置を認可するよう求めたものだ。これまでの審議会と幸福の科学大学の間で行われていた設置認可申請手続きの経緯を振り返りながら、この審議会の答申を中心に、教育行政による宗教弾圧の実態を糾す。

教義の否定にまで踏み込んだ今回の答申

審議会が出した答申には、「霊言については、科学的合理性が立証できていない」という不可判定の根拠が示され、さらに、「認可の強要を意図すると思われる不正行為があった」という指摘もつけられた。

しかし、霊言は幸福の科学に限ったことではない。キリスト教のイエスは「天の父の声」を伝えたのであり、イスラム教の聖典コーランもムハンマドの霊言でつづられている。仏教にも神々との対話や悪魔との対話があるように、世界宗教はいずれも霊言に基づいている。霊言を理由に大学設置を認めないならば、全国にあるキリスト教系や仏教系の大学はいずれもその正当性を否定されたことになる。

答申では特に、創立者の精神を記した『幸福の科学大学創立者の精神を学ぶ1・2(概論)』(大川隆法著)の中で霊言などの霊的価値観が語られていることを問題視している。だが、既存のキリスト教系大学の多くは、聖書にある神への奉仕の姿勢を創立の精神にしており、宗教系大学で霊的な視点を含まない創立の精神などありえない。宗教系大学には当然ながら、カリキュラムの一部にその精神を体現した僧職者を養成する課程が存在しているのだが、審議会はその正当性をどのように説明するつもりだろうか。

しかも、幸福の科学大学が申請した講義の内容は、その多くが既存の学問体系に則ったものである。人間幸福学部について言えば、霊言に関する授業は『幸福の科学大学創立者の精神を学ぶ1・2(概論)』を参考書籍にしたものだけであり、卒業124単位中4単位とごく一部である。これを捉えて、幸福の科学大学全体の教育内容をすべて霊言に基づくものだとして否定し、開学そのものを不可とした答申は、はなはだ強権的であり、学問的見地から出されたとは到底考えられない。

そもそも、私立大学は教育の自由性を保障するために存在している。国家が提供する教育だけでは、国民の多様な価値観に沿った教育のニーズに応えることができないからだ。

そのため、大学設置認可に当たっては、カリキュラムや校舎等の設備、定員などの客観条件を審査の対象にすることになっている。もし、教える内容そのものに踏み込んで変更を迫ったり、不可とするならば、「その思想が学問と言えるか否か」を決める権限を文科省が持っていることになり、国家機関による重大な「学問の自由」の侵害に当たる。

日本国憲法23条で保障されている「学問の自由」の趣旨は、大学などの「学問の自由ないしは学説の内容が、直接に国家権力に侵害された歴史を踏まえて、特に規定されたものである」(『憲法』芦部信喜著)。今回の判断は、まさしくこの国家権力による「学問の自由」の侵害に当たる。

ましてや、霊言という宗教教義そのものを否定したことは、「信教の自由」をも侵すものであり、決して許されるものではない。

天理教の創始者である中山みきは、「神がかり」と言われる霊言現象で教えを遺した。現在の天理大学には中山みきの教えを元にした僧職者課程があるが、その正当性も覆されたことになる。

天理教以外にも、日本の新宗教には霊言が数多く存在する。大本教や立正佼成会、霊友会、世界救世教などはいずれも霊言から教義が生まれている。宗教界において霊言はかくも普遍的なものであり、霊言を根拠に不可答申を出したことは、世界宗教を始めとして日本の新宗教の大半を愚弄したことになり、深刻な「信教の自由」の侵害であることを指摘したい。

霊言は学問的検証に十分耐えうる

「霊言は科学的合理性が立証できていない」とする判断も学問や宗教に対する見識を著しく欠いている。

霊言には再現性、客観性がないというが、大川総裁は500人以上の霊人を公開の場で招霊し、映像として延べ数千時間に渡って収録され、その語った内容は一般にも書籍として発刊、公開されている。

大川総裁が個人で霊言をしていることから、主観によるものと断じ、客観性を求められる学問としては不適格であるという見方もある。だが、このほど下村博文・文科相の守護霊を6人のスピリチュアル・エキスパート(いわゆるチャネラーにあたる)に入れて公開霊言が行われた。下村氏守護霊の個性は一貫しており、霊言は多角的な検証に十分耐えうることが示されている。

そもそも、キリスト教において神の声を聞けたのはイエス一人であり、イスラム教のコーランも、ガブリエルの声を霊言として遺せたのはムハンマド一人である。仏典に記されている「神々との対話」や「悪魔との対話」も、基本的に釈尊一人が伝えたものである。一人しか霊言ができなければ学問的ではないならば、やはり既存の宗教には大学を設置する根拠が失われてしまう。

だが、先ほども触れたように、日本の新宗教にも霊言は数多く存在し、神を名乗るものから守護霊まで、その種類の多様性や件数を見れば、霊言現象は学問的に研究可能な対象である。

また、「学問は科学的証明のみによって正当性が得られる」という考え方は極端に過ぎる。

自然科学の歴史は長く見積もっても200年程度であり、一方、宗教は少なくとも3000年以上に渡って連綿と続いている。後発である科学の論理を使って宗教の教義や霊言を証明できないからといって、霊言は学問的ではないとするのは本末転倒である。

学問の世界においては、計算や実験による証明、十分に納得できる論理的証明、有益性による証明などの観点がある。つまり、科学のように実験室で何度も繰り返し起こせるという証明以外にも、宇宙のビッグバン現象のように「再現できないが、これ以外には説明のしようがない」という証明の仕方や、人々や社会の精神性の向上にとって有益であるという証明の仕方などがある。

大川総裁は年間100冊以上のペースで霊言を収録・出版し、その霊人たちの考え方や個性はすべて異なっている。さらに、その内容は高度な思想性と学問性を備えており、創作で出来るものではない。この量と質を見れば、霊界の存在証明として研究に値するものであるのは明らかだ。

科学的実証主義を唱えた哲学者のカール・ポパーは、プラトンやヘーゲル、フロイトなどの哲学は反証可能性がないとして否定した。この科学的実証主義が現代に広がっているものの、今でもギリシャ哲学や心理学を学問分野から締め出そうとする動きはない。科学的実証主義が決して万能の物差しではないことの何よりの証左と言える。

審議会は行政による「振り込め詐欺」

審議の経緯自体にも不当な点が数多く存在する。

霊言を不可の根拠としているが、大川総裁が霊言を通じて霊的世界について説き、その書籍が数百冊に及んでいることは、もともと分かっていたはずだ。

大学設置審議に入るに当たって、文科省は大学側に教員の採用はもちろん、大学施設の建設などを求めてきたにも関わらず、最終的に既存の霊言をもって不認可とするならば、信義誠実の原則に反する。行政による「振り込め詐欺」と言っても過言ではない。

また、これまで審議会からは2度にわたって多数の「是正意見」が出され、幸福の科学大学はそれにすべて応えてきた。この過去2度の是正意見では、「霊言は科学的実証性がないため、それに基づいた学問は認めない」という今回の論点は指摘されていなかった。にもかかわらず、最終答申でその論点を持ち出し、その一点ですべての議論を覆したことは、審議会の判断根拠を疑わざるを得ない。

さらに、審議会の答申には、「大川総裁の霊言書籍の新聞広告がこれまで相当数掲載されてきたことをもって、社会的に受容されているとはいえない」という趣旨のことが書かれている。断っておきたいのは、本件は大学設置認可に関する問題である。議論すべきは大学のカリキュラムや教授体制などであり、答申内容はあまりにも大川総裁の霊言の是非にこだわっている感が否めない。

実際には、各新聞社では社会的に受容されるかどうかの厳正な広告考査が行われており、答申はジャーナリズムの社会的信用を否定するものに他ならない。

日本新聞協会が定める「新聞広告倫理綱領」には、「新聞広告は、真実を伝えるものでなければならない」とあり、「非科学的または迷信に類するもので、読者を迷わせたり、不安を与える恐れのあるもの」は掲載してはならないとされている。大川総裁の著作が数多く新聞広告に掲載されていることは、社会的受容を意味するものである。

霊言などの献本・伝道行為は不正なのか

大川総裁は6月と8月に下村博文・文科相の守護霊霊言を収録、発刊した。その書籍の広告は新聞広告にも掲載された。

答申では、幸福の科学グループからの書籍の献本を「認可の強要を意図した不正行為」として糾弾している。

審議中の大学の創立者が新たに出版した書籍を参考資料として、文科省及び審議会の関係者に送付することがなぜ、認可を強要する不正行為となるのだろうか。これはむしろ、大学設置などを申請する側の国民を行政側が威圧する行為であり、行政権を盾にした「言論・出版の自由」の侵害である。

宗教団体の教祖の書籍を献本することはそもそも伝道行為である。今回の指摘は、行政に対して事業等の申請を行っている間、信仰者に対して「伝道禁止」を言い渡すものであり、「信教の自由」を無視したものだ。

一連の審議の経過を見ると、不可解な点が多すぎる。審議会の是正意見にはすべて応じたにもかかわらず、卒業124単位中4単位にすぎない創立者の精神に関する講義をやり玉に挙げて、すべての申請内容を覆したこと。文科省及び審議会の関係者への献本が、「不正行為」と見なされたこと。新聞広告の社会的信用にまで行政が言及して、霊言の正当性を否定したこと。

これらは、大学設置に関する学問的見地からの議論というよりも、むしろ霊言自体を貶める趣旨が見て取れる。

7月発刊の週刊新潮には、審議会のメンバーが幸福の科学大学に関する情報を記者にリークした内容の記事が掲載された。審議中の案件に関して、世間に対する印象操作を行ったわけであり、これこそまさに不正行為だろう。

国家による歴史的な宗教弾圧である

ここまで見てきたように、今回の答申が幸福の科学グループ全体に与えた悪影響は計り知れない。

「霊言」を指弾した不可答申は、幸福の科学の教義そのものの否定に踏み込んだものであり、他のあらゆる宗教の拠って立つ霊現象の否定につながるものだ。たかが一国の教育行政に、宗教の存立基盤である霊現象の是非を判断する権限も能力もない。はなはだ宗教教養と立憲精神の理解を欠いた、傲岸不遜な判断と言わざるを得ない。

しかし、各種報道で霊言が審議会に否定されたことを知った日本人の多くは、「国家が霊言を迷信の類や嘘・偽りとして認定した」と理解してしまうのではないか。これは、全国の幸福の科学の信者の信仰心を踏みにじると同時に、世間一般における幸福の科学の名誉を著しく汚すものである。今後の布教行為そのものを妨害する面もあり、「信教の自由」や「信仰告白の自由」という国民の基本的人権を真っ向から否定した罪は看過できない。

さらに、すでに建設された校舎を始めとする大学関連施設だけでも百数十億円を投資ししており、土地代や教員などその他の諸経費を含めた経済的人的被害をいかに補償するつもりなのか。

また、幸福の科学大学への進学を目指していた数多くの学生の将来に多大な影響を与えてしまった。憲法には、自分が希望する教育を受ける権利が保障されているが、彼らはその権利を奪われたことになる。

既存の大学では、宗教系大学も含めて、宗教活動や布教活動が禁止されていたり、信者たちによるサークル活動や学園祭などの出店が不当に禁止されている状況が散見される。幸福の科学の信仰を持つ学生たちは、自分たちの信仰を自由に表現できる大学を求めているのであり、こうした既存の大学では代替できない現状にある。こうした被害に対し、文部科学省はどのように保障するつもりなのか。

今回の答申は、教育行政が私立大学の設置をも一元管理していることを示しており、その思想は国家社会主義へとつながるものである。それは、一政権の学問観、宗教観などに沿って、国民の「学問の自由」や「信教の自由」を抑圧する体制である。

とりわけ、宗教の命ともいえる「霊言」を否定したことは、国家による歴史的な宗教弾圧である。宗教や思想における正当性や是非について国家が判断を下すなど、民主主義国家の成立過程をすべて否定するような暴挙である。一省庁の責任に矮小化されるレベルの問題ではなく、政権自体の重大な失政であることを厳しく指摘したい。

この判断の背景には、週刊誌的判断で霊言を揶揄する見方があるのだろう。しかし、前述したように、キリスト教の処女懐胎やモーセの奇跡譚、仏教の疫病調伏など、宗教の聖典にはいずれも現代科学では証明できない話が数多く存在する。これらは宗教の神聖な部分であり、自分が信じられないからといって、それを詐欺行為であるかのごとく見なすことは信仰者への侮辱行為となる。

幸福の科学は決して、詐欺などの犯罪行為などしておらず、反社会的な団体でもない。その教えもほとんどが書籍として一般公開されており、支部や精舎での行事にも一般人が参加できるなど、極めて公開性と透明性の高い宗教である。文科省が霊言のみを捉えて幸福の科学の社会的信用を否定するならば、あまりにも宗教的見識を欠いていると言わざるを得ない。

以上の理由より、今回の答申は国家による深刻な宗教弾圧であり、霊言を否定したことを幸福の科学と全国の信仰者に謝罪し、幸福の科学大学を「不可」とした判断を一刻も早く撤回するべきである。