昨日に続き、「あしたのジョー」がなぜ日本人の心にいまだに共感を与えるのか、その「深層心理」をさぐってみたい(あくまで私見)。

矢吹丈の生き方に多くの日本人が共感を受けるのは、どん底の状況から這い上がり、世界の舞台に立つという、サクセス・ストーリーの部分だろう。

この矢吹丈の生き方が日本の高度成長期とマッチした一方、ドロップアウトし挫折を繰り返す生き方の中には、弱者への救いも込められていた。それが多くの日本人の共感を呼んだはずだ。

しかし、今、改めて振り返ると、日本は「あしたのジョー」の"呪縛"を受けていたのかもしれない。最終的に丈は、無敵の世界チャンピオン、ホセ・メンドーサに挑戦者として挑むが、善戦むなしく敗れて終わる。ここに日本人は「敗者の美学」を感じ取る。

戦後の荒廃期という「ドヤ街」の中から身を起こし、何度も挫折を繰り返しながらも、世界一に挑めるところまで来たが、「世界一」は手にすることがなく、ナンバー2のままでいる日本。そこに日本人みずからが「美学」を感じ取っているとしたら、世界一になることは望めまい。

「あしたのジョー」は最後の場面は、「燃え尽きた」という安堵の表情を浮かべて丈が真っ白になるところで終わる(「死んだ」かどうかは、いまだに議論があるが)。

だが、実は「あしたのジョー」には、「つづき」があるのではないか。

その秘密はタイトルの中にある。今日という日が、どんなにみじめであっても、「あした」という日がある。「あした」には希望がある。未来がある。その意味で言えば、矢吹丈は死んでいない。永遠に「あした」を目指して生きている。

「あしたのジョー」を現代に復活させるとしたら、「失われた20年」(丈の場合は40年)からまた奇跡の復活を遂げ、世界一に挑み、見事にチャンピオンにならねばならないだろう。

そのとき、矢吹丈はリング上から世界中の観客に言うのだ。「俺はドヤ街から這い上がった。みんな、俺のようにチャンピオンを目指せるんだ」と。その姿に多くの貧しい国の若者たちや、失意の中にある人々が勇気を得るだろう。

日本は「あした」を目指して戦後、奇跡の復興を遂げた。

だが「豊かさ」を手にして初心を忘れ、「あした」への希望を失った。そして「失われた20年」に陥った。

しかし、本当の「あした」を日本はまだ手にしていない。それは、日本が白人支配を終わらせ、世界から植民地を解放した、その「つづき」だ。

日本が世界のリーダーとなり、世界ユートピアを実現すること。それこそが「ネオ・ジャパニーズ・ドリーム」だ。

日本には、まだ輝ける「あした」がある。丹下段平のように叫ばねばならない。

「立つんだ、日本。世界の未来は日本にかかっているのだ」と。(仁)

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