チベット仏教のリーダーであるダライ・ラマ14世は今月はじめ、米ミネソタ大学で中国人学生150人を前に行なった講演の中で、「わたしは自分をマルキストだと思っているが、レーニン主義者ではない」と発言した。
世間のダライ・ラマ像からすれば衝撃的なコメントだろうが、しかし彼がマルキストを自称するのは新しいことではない。
同氏は1999年の米誌タイムへの寄稿で「(マルキシズムを勉強し始めたころは)マルキシズムに惹かれ、共産党に入党したいと思ったほどである」と述べている。この寄稿によれば、ダライ・ラマは平等と富の分配の思想や、創造主や神に頼ることない自己信頼という共産主義の概念を魅力的だと思う一方で、中国共産党はマルキストを実践しておらず、チベットを侵略し抑圧しただけだったと述べている。
とはいえ、マルクス主義とダライ・ラマの思想とが両立するのかという疑問は生じて当然である。
6月17日付の米紙ウォールストリート・ジャーナルでは、アーシナス大学哲学人文学部教授のカーリン・ロマノ教授が「マルキシズムは無神論の世俗的なもので、ダライ・ラマは地上に降りた神の現われではないのか。もし彼がマルキストが誤りだと知らないなら、誰が知っているのだろう」と疑問を投げかけている。
確かに宗教修行に共産主義的な生活はつき物で、初期仏教の修行僧は個人的な持ち物を持つことを制限されたし、新約聖書の『使徒言行録』にはキリストの弟子たちが財産を共有した話が登場する。
しかしそれは俗世を離れた聖なる生活に身を捧げることを決意した僧侶らの話であり、社会や国家の原理としてのマルキシズムが独裁と暴政を生む思想であったことは歴史が証明している。個人の富を否定する考え方が生むのは、貧しさの平等による原始的な生活であり、社会の発展ではない。
そもそもマルクスが不可避のものとした暴力革命は、ダライ・ラマの唱える非暴力の教えと矛盾することは明白なことである。
いくら世間的に有名な宗教家であっても、「平和」を漠然と説くだけでは、社会を導けないということである。2000年以上昔の教えでは対応できないほど、社会が発展し複雑になった現代において、必要なのは現代の問題に的確な答えを与えてくれる新たな教えである。






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