日本の平安時代中期に活躍した恵心僧都源信(942~1017年)の魂は、その後、北欧スウェーデンの神秘思想家・スウェーデンボルグ(1688~1772年)として転生した(転生を通じて伝えた「地獄の真実」 源信はスウェーデンボルグに生まれ変わった 新・過去世物語 人は生まれ変わる)。
2人に共通するのは、当時の仏教、または、キリスト教において、大きく欠けていた「霊界思想」を補い、人々に「あの世」の実在を伝えたことだ。
今回は源信にフォーカスして、その姿に迫る。
源信は四弘誓願を立てて修行に励んだ
僧となった源信は、四弘誓願(しぐせいがん)を立てて修行に励み、比叡山で優秀な学僧として頭角を現していく。
四弘誓願とは、以下の4つの仏道修行に励む者の心がけである。
- 数限りない人々を救っていこうと誓う、衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
- 尽きることのない煩悩を断とうと誓う、煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)
- 仏の教えのすべてを学び取ろうと誓う、法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)
- この上ない悟りに到ろうと誓う、仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)
優秀な学僧たちでさえ、「地獄」の実在を感じていなかった
当時、源信の師・良源は、教学研究を大いに盛り上げ、その門下には源信をはじめとして、優秀な学僧が並んでいた。しかし、当時の仏教には、一つの大きな問題があった。それは、実感をもって死後の世界の実在を伝える者がいない、ということだった。
源信伝を著した専門家は、「学僧たちの場合、どの著述も学問的視点からの地獄の解説に終始している」として、源信と同時代の代表的な教学書における地獄描写が不十分であったことを指摘する(速水侑『地獄と極楽』吉川弘文館)。
南都仏教の教学書でも、八熱地獄や八寒地獄のように種類をあげ、「地獄の苦相を簡単にまとめて説明しているだけ」であったり、「仏法に対する不信謗法」を行った者が「地獄に堕ちる」と述べる程度であったりした。天台宗の教学書には、「地獄についてまったくふれていない」ものさえもあったという。
「(それらの教学書は)高度で精緻な教学論を展開する一方で、地獄の問題についてはほとんど関心を示していない。おそらくこれら学僧たちは、地獄の存在を宗学の知識として理解していても、自分自身にとっては無縁の遠い世界としか考えなかったのであろう」(同書)
比叡山でも南都仏教でも、「学問」として仏教が学ばれていた。そうした時代に源信は、霊的な体験に根差して「地獄」の実在を伝えていく。その迫力は、同時代の理論書を遙かに超えるものだった。
『往生要集』が示す、間違った教説を説いた者が堕ちる地獄「等喚受苦処」
源信は、比叡山の横川に隠遁して修行に励みつつ、念仏僧や公家の熱心な念仏信者と交流する。その信者の多くは、源信の『往生要集』が描いた地獄のすさまじさに衝撃を受け、魂の救済を求めた人々であった。
たとえ外見が僧侶であろうとも、間違った教説を説いた者は地獄の苦しみから逃れられない。『往生要集』は、そうした人々は「等喚受苦処(とうかんじゅくしょ)」に堕ちると説く。